アメリカ合衆国の経済史(アメリカがっしゅうこくのけいざいし)では、主に17世紀にヨーロッパ人が現在のアメリカ合衆国となった地域に入ってきてからの経済の歴史を概説する。1776年、イギリスの13植民地が合同してアメリカ合衆国となった。19世紀の間に、アメリカ合衆国の経済は外資へ依存しながら工業化された。第一次世界大戦後にアメリカは世界経済の債権国へ伸し上がった。資源国としても世界中から移民を惹きつけて、技術と産業を国際的に発展させた。20世紀後半には、成長しつづける機関投資家が多様な市場に変革をもたらしたので、合法的であれ19世紀に劣らないような経済格差が広まった。USドルは基軸通貨として国際需要が絶えず、国内では証券を主要な交換手段とするようになった。やがて証券は国際流動性にまで昇華したが、とりわけ労働市場における格差を是正しないまま大衆の債務を証券化していたので、危険は世界金融危機として顕在化することになった。, アメリカ州の先住民族は、ヨーロッパ人が到着するまでアメリカ州以外との接触がほとんど無く、種族の間で交易がある程度だった。その経済の仕組みは、イロコイ連邦の場合など狩猟採集と農業の様々な組合せだった。農産物としては既にトウモロコシが広く栽培されていた[1]先住民族の経済はヨーロッパ人の到来とその結果として疫病が入り、ヨーロッパ製品の流入、毛皮貿易に関連したヨーロッパ人との交易関係、武器の獲得と戦争への関与、土地の喪失および居留地での拘束というように大きく変えられていった[2]。, 1492年、クリストファー・コロンブスがスペイン国旗の下でアジア発見のために出航して、たまたま「新世界」に到着した。続く100年間、イギリス人、スペイン人、ポルトガル人、オランダ人およびフランス人探検家がヨーロッパから新世界に航海し、金、富、宗教的利益、名誉および栄光を探った。しかし、北アメリカの荒野は初期探検家達にほとんど栄光をもたらさず、金もあまり見つからなかったので、大半はここに居住することが無かった。北アメリカに定着するための人々がやって来たのはだいぶ遅くなった。1565年に現在のアメリカ合衆国内となるフロリダ州セントオーガスティンにスペインの植民地が造られ、その後の1607年、バージニア州ジェームズタウンに、小さな一団の開拓者がイギリスの恒久的開拓地を建設した。Piemolaapje, 初期の開拓地は簡単には自立できなかった。ジェームズタウンの場合、最初に到着した者の半数は病気と飢えのために最初の冬を越せなかった。その後も少なくとも3年間は本国からの補給に頼る状態が続き、放棄寸前までいった。1520年にニューイングランドに作られたプリマス植民地にしても、最初の冬を越すことが大変だったのは同様であり、その中で先住民族との関係を築き、トウモロコシの栽培方法などを習って飢えを凌ぐ途を探った。どちらの植民地もイギリス本国には植民地から上がる収益を期待して投資した者達の存在があり、その見返りになるものはなかなか見つからなかった。そうした中でジェームズタウンでは、ジョン・ロルフが西インド諸島から持ち込んだタバコの栽培に成功した。これがイギリスにむけて出荷されて評判を呼び、換金作物の目処が着いた。, 初期開拓者は様々な理由でアメリカに来ていた。マサチューセッツ湾植民地のピューリタンはニューイングランドで浄化された宗教を生み出そうと望んだ。バージニア植民地のような他の植民地は主に事業創造として植民地を建設した。アメリカ合衆国となった地域にイギリスが植民地化して成功したことには、特許会社を使ったことが大きく寄与した。特許会社は一群の株主(通常は商人と裕福な土地所有者)が個人的経済利益を追求し、恐らくはイギリスの国としての目標にも適うことを欲して作ったものだった。民間部門が会社の財政を担い、国王がそれぞれの計画に経済的な権利と政治・司法の権限を与える特許あるいは認可を発行した。しかし、植民地は概して直ぐには利益を生まなかったので、イギリス人投資家達はしばしばその植民地特許を開拓者達に渡した。当時は認識されていなかったものの、この政治的意味合いは大きなものだった。植民地の者達は自分達で生計を立て、自分達の社会を作り、つまりは自分達の経済の仕組みを作っていくままに任された。, 初期植民地で成功したのは毛皮用動物の捕獲と交易から得られたものだった。しかし植民地全体では主に小さな農園で自給自足で暮らす者が多かった。数少ない都市やサウスカロライナおよびバージニアの大規模プランテーションの中では、幾つかの生活必需品や事実上贅沢品の全てがタバコ、米およびアイのような輸出品との見返りに輸入された[3]。交換手段は絶対的に不足していた。, このような中で後のニューヨークが発展を始めた。当初、オランダ人がマンハッタン島に交易所を作り、1625年にニューアムステルダムと呼び始めた貿易の中継点だったが、イギリスが1664年に占領して、ニューヨークと改名した。天然の良港とハドソン川水系を抱えたこの地域は、内陸でビーバーの毛皮とヨーロッパ製品を交換して運び出し、大西洋貿易に船積みすることで発展して、1660年頃の人口1,000人が1690年には6,000人、独立後の1790年には3万人を越えるまでになっていった[4]。, 開拓地を開いていくためには、労働力が必要だった。初期にはかなりの数のヨーロッパ人が年季奉公として連れてこられた。年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行は徐々に進んだ。アフリカからの奴隷輸入は18世紀に入って急増し、1720年のサウスカロライナ植民地では人口の65%が奴隷だった[5]。ロードアイランド植民地のニューポートは奴隷貿易(三角貿易)の上で重要な港となった。, 植民地が成長するにつれて補助的な製造業が発展した。特化された製材所や製粉所の様々な形が出現した。開拓者達は漁業船隊を作るための造船所を作り、時には貿易用船舶を造った。また、小さな鉄鋳造場も作った。18世紀までに、地域による発展の方向性が明白になった。ニューイングランドの植民地は造船や船舶の運用による貿易、捕鯨を初めとする漁業に依存して富を作るようになった。メリーランド、バージニアおよび両カロライナのプランテーション(多くは奴隷を労働力に使った)はタバコ、米およびアイを育てた。中間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージーおよびデラウェアは一般の穀物や毛皮を輸出した。奴隷は例外として一般的生活水準は高く、実際にイギリスのものよりも高かった。イギリス人投資家達が撤退したので、植民地の人々の中にいる起業家に可能性が開けた。, 1770年までに、アメリカの植民地はイングランド王ジェームズ1世(在位1603年-1625年)の時代以来、イギリスの政治に支配的だった勃興する自治の動きの一部となるために経済的にも政治的にも準備が出来上がった。イギリスとの間で税金やその他の事項に関する論争が起こった。フランスとの長い戦争で経済的にも疲弊したイギリスは、重商主義を推し進める対象としてアメリカ植民地に自国製品やイギリス東インド会社が輸入した茶などを押し付けようとした。このためにアメリカでは1つの産業にもなっていた密貿易を取り締まったり、高い関税を押し付けて自国商品のみが売れるようにしたうえに、印紙法などを制定して課税強化を図った。13植民地のアメリカ人はイギリス人としての権利を要求し、代表なくして課税なしという立場を採ったが、イギリスはこれを否定した。アメリカ人はイギリス製品のボイコット運動を起こし、イギリス商船に積まれていた茶を投棄する事件まで起こした(ボストン茶会事件)。この紛争がアメリカの独立に繋がり、イギリスとの全面戦争となり、遂には新しいアメリカ合衆国として政治的独立と主権を確保した。, 17世紀や18世紀のイギリスの政治的動揺に似て、アメリカ合衆国の独立革命(1775年-1783年)は「生命、自由および財産に関する不可分の権利」をスローガンに戴いた中産階級の勃興によって政治的にも経済的にも支えられた。この言葉はイギリスの哲学者ジョン・ロック『市民政府二論』(1690年)から援用されたものだった。イギリスと政治の世界で分離することは植民地人多数の当初目標ではなかったかもしれないが、独立と主権国家すなわちアメリカ合衆国が最終的結果になった。それは成長の時代だった。, 独立戦争を担った大陸軍兵士への給与、食料、防備、兵装、兵器やその他の装備に対する財政的な責任は、各邦にその調達ともども割り当てられた。各邦はこの義務を果たすやり方が異なっていた。戦争中は財政を保つことや兵士の士気を保つことが常に問題であった。この時点ではまだ13植民地がそれぞれ独立した邦という色彩が強く、1781年3月1日から大陸会議を引き継いだ連合会議でも、課税権を持たず、対外通商および諸邦間の通商を規制する権限、常備軍を保持する権限もなかった。また各邦からの拠出金によって運営されていたために、連合規約の時期のアメリカ合衆国の財政基盤は脆弱なものであった。輸入税が独自の歳入源として挙げられたが、それを実現するための各州の賛成は得られなかった。このような時期にロバート・モリスが財政最高責任者となり、1782年に合衆国に設立許可された最初の金融機関、バンク・オブ・ノースアメリカ(Bank of North America)を創設した。モリスは歳出を減らす幾つかの改革を行い、競争入札の利用、出金手続の締め付け、および連邦政府が各邦と金や物資の負担を分け合うよう要求することで政府の支出を大きく減らした。, 執行力の不足した連合会議ではあったが、フロンティア開拓に関わる2条例を定めることに成功した。1785年の公有地条例は、北西部領土(オハイオ川、五大湖、ミシシッピ川に囲まれた地域)の連邦所有地の測量、分配の方法を定めたものであった。この方式は、後の合衆国憲法下の政府にも引き継がれ、公有地売却という連邦政府の重要な収入源の基礎となった。また1787年の北西部条例は、北西部領土について暫定的な統治方法を定めたものであった。北西部条例では、北西部領土に将来的に3ないし5の準州を組織して、自由人口が6万人に達したときに旧来の邦と対等の資格で連邦に加入できることも定めた。, 1787年にアメリカ合衆国憲法が採択され、国全体が一つになり、共通の市場、すなわち州間の交易には国内の関税や税金が無くなった。それでも1790年に行われた第1回国勢調査[6]では、総人口はわずか393万人、ニューヨーク市の33,000人が最大で、1万人以上の都市は5つしかなかった。広大な土地にこの人口では経済的にヨーロッパ列強に太刀打ちできる状態ではなかった[7]。アレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官としてたいへん広い見解を持っており、連邦政府の権限がおよぶ範囲が大いに議論された。ハミルトンは富裕で政治に関心のある階級(政府を健全な状態に保つことに関心があった)に保有される国債を元に強い国の信用を造り上げ、また輸入品にかける関税で資金を集めた。ハミルトンは、アメリカ合衆国が多角的な船舶運用、製造および金融を通じて経済の成長を追求すべきと考えた[8]。政府の支出に資するために保護関税のような手段を提案したが、ウィスキーに掛かる税金には西部(この時代は現在の東海岸の西部山岳地)の農夫達が強く反発した(ウィスキー税反乱)。1791年には議会に働きかけて第一合衆国銀行(現シティグループ)を創設する認証を得た。その公認期間は1811年まで続いた[9]。, トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンは強い中央政府に反対した(その結果ハミルトンの経済政策の大半に反対した)が、ワシントン政権で広大な権限と強い政治力を発揮するハミルトンを止めることはできなかった。しかし、1801年ジェファーソンが大統領になり、ジェファーソン流民主主義と呼ばれるより分散的で農本的な民主主義を推進するように変わった。この考え方は危機感に裏打ちされていた。1803年末に外国が連邦債務の約56%(4870万ドル)を保有していたのである[10]。アメリカは英仏の対立に乗じて、戦争をしている両大国に食料や原材料を輸出し、国内市場とカリブ海の植民地の間で商品を輸送することから利益を生み出そうとした。マディソンはジェファーソンの後を受けて大統領となり、合衆国銀行の公認が1811年に消滅するままにさせた。しかし、アメリカの海運に対するイギリスの干渉が続いていたことなどに端を発した米英戦争が国定銀行の必要性を証明することになった(連邦負債総額1億1960万ドル)。ここでマディソンは立場を変えた。第二合衆国銀行は1816年に、20年間の公認期間で創設された[11]。1818年、外国は連邦政府債務9900万ドルの約26%を保有したが、およそ半分がイギリス投資家に保有されていた[12]。, 1803年のルイジアナ買収により、西部の農夫達はミシシッピ川を重要な水路として使うことが可能となり、合衆国の西部辺境からフランス人を追い出すことで開拓者は広大な農地の拡張が可能となった。グレートプレーンズをふくむ同地域は世界の大穀倉地帯に成長していった。一方、綿花は当初南部での小規模作物だったが、イーライ・ホイットニーが1793年に綿花原料から種とその他の廃棄物を分ける機械であるコットン・ジンを発明した事によって盛況となった。間もなく奴隷労働に基づく大規模プランテーションが両カロライナ州からテキサス州にかけての肥沃な土地に拡がった[13]。, 毛皮貿易で一大資産を築いたアメリカ毛皮会社の所有者ジョン・ジェイコブ・アスターは、その事業から撤退した後に、ニューヨーク市のマンハッタン地区を買占めて開発し、アメリカ合衆国では最初の大富豪になった。, 1807年、ロバート・フルトンがハドソン川で外輪蒸気船クラーモント号を試運転して、オールバニまで遡った。これが蒸気船の実用化に拍車を駆けて、水上交通に急速に普及していった。1818年には帆船によるニューヨーク・リヴァプール間の大西洋定期航路が開かれ、1838年からは蒸気船も加わり、1848年から蒸気船による定期航路も開かれ[14]て、ヨーロッパへの往来が速くなり、安全性も増した。, 多くの者がアメリカ合衆国中西部のより肥沃な農地に移って行った。カンバーランド道路(1818年)やエリー運河(1825年)など政府が創設した道路や水路によって新しい開拓者の西部への移住を促し、西部農場の産品を市場に送ることが可能になった。ヘンリー・クレイのアメリカ・システムを支持したホイッグ党は内陸の改良(道路、運河、港)、産業の保護、および強い国定銀行の創設を提案した。しかし、ホイッグ党の法制化計画は民主党に遮られた。, この時代のアメリカは保護貿易政策を強化し、国内産業の育成を進めた。1824年関税法は商品の価格に応じて35%という高い関税率を定めた。1828年関税法では鉄などの原材料の課税額を重くした。しかし、農業産品の輸出に頼っていたサウスカロライナ州など南部は、輸出ができなくなると反発し、1832年関税法でもその状況が改善されなかったために、サウスカロライナ州ではこれらの関税が州内では無効となることを宣言した。無効化の危機と呼ばれるこの紛争は、後の南北戦争の伏線となった。, アンドリュー・ジャクソン大統領(在任1829年-1837年)は、政敵の固定化した利益のためになると信じた第二合衆国銀行に反対した。ジャクソンは2期目に選ばれたときに合衆国銀行公認期間の延長に反対し、議会もこれを支持した。ジャクソンは紙幣の流通にも反対し、政府の得るべき金は金貨と銀貨で支払われるべきであると要求した。, 1837年恐慌が3年間経済の成長を止めた[15]。期間延長を働きかけたヘンリー・クレイは1824年にギリシャ独立戦争でギリシャ側を支援した。延長問題は国際問題であった。1838年までに各州債務残高は1億7200万ドルにのぼった[16]。ルイジアナには外資が集中投下されていた[17]。州債はマーチャント・バンクが引受けることにより発行されていた(私募債)。公債市場の役者は、たとえばロスチャイルド、ベアリングス銀行(米英戦争から第二合衆国銀行と親密化)、ホープ商会、オーバレンド・ガーニー(現バークレイズ)、サミュエル・ロイド(Samuel Jones-Loyd, 1st Baron Overstone)であった[18]。恐慌ではシティ・オブ・ロンドンが資金を供給しきれず、欧州へ資金を頼った州も続出したので、1848年革命まで国際的な不況が続いた[19]。, 鉄道は財務と進歩した管理技術を持つ都市工業国家への転換を可能にすることで、アメリカ経済に決定的な影響を与えた。鉄道が「不可欠な」ものであるかどうかを問われたとき、全ての人は事実上大変重要であることに同意したが、それではそれが無かったときどうだったろうか? ロバート・フォーゲルは代案は存在した、実現されることの無かった運河の仮想のネットワークであるとしている。存在しなかった運河と比較して、鉄道は合衆国の国内総生産 (GDP) に5%を追加しただけだと、フォーゲルは主張している(1820年代と1830年代に多くの運河が建設されたが、エリー運河は別として大半が破産した)。プラス面を見ると、鉄道は大規模な事業を運営する現代的手法を発明させ、全ての大企業が基本的に従う青写真を創出した。鉄道は最初に、管理の複雑さ、労働組合問題および競合の問題に遭遇した。これら急激な革新のために鉄道は最初の大企業となった[20]。, 何度か恐慌や不況を経験しながらも[21]、19世紀中の急速なアメリカ経済の成長は留まらなかった。長期にわたる人口の増大、新しい農地への拡張および新しい工場の建設が続いた。新しい発明や資本の投入によって新しい製造業を創出し経済成長をもたらした。輸送力が改善されると常に新しい市場が開けた。蒸気船は川の交通を速く安くしたが、鉄道の発展はもっと大きな効果があり、広大な新しい領土を開発することを可能にした。運河や道路のように鉄道は初期の建設段階で土地の払い下げという形で政府の大きな援助を受けた。しかし、他の輸送形態とは異なり、鉄道は国内やヨーロッパの民間資本も大量に受け入れた[22]。, それでも成長の展望と海外投資が組み合わさり、金鉱の発見やアメリカの公的および民間の富が大きく関与したこともあって、大規模な鉄道システムを発展させることが可能になり、国全体の工業化の基礎となった。, 産業革命は18世紀遅くに北ヨーロッパで始まり、19世紀初期にはアメリカで急速に広まった。例えば紡績機など工場生産を行うための機械は元々イギリスを始めヨーロッパで製作されたが、アメリカはこれを自国で生産できるように模倣と工夫を重ね、機械を作るための工作機械を持つ工場も現れた。1840年代後半にリボルバー拳銃を大量生産して富を築いたサミュエル・コルトは、1830年代に既に武器なればこそ必要とされる互換性のある部品という概念を持って製造を始めていた。製造ライン、大量生産の原型が既にこの時代に誕生していた。またコルトは特許権を事業にした者としても先駆的存在だった。, 1846年のオレゴン条約でイギリスとの境界問題を片付け、翌年、米墨戦争に勝利したアメリカは、太平洋岸の出口をしっかりと確保した。カリフォルニアやコロラドでの金鉱発見が続き、西部は東部からの移住者で人口が急増し発展を始めた。以前から大西洋で盛んだった捕鯨が北太平洋での新たな産業になった。折から清国との貿易を求めていたアメリカは途中にある日本に薪、水、食料の補給拠点を求めた。1853年、マシュー・ペリーの率いる黒船船隊が浦賀沖に現れ、翌年の日米和親条約で日本は開国した。, エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた1860年までに、アメリカの人口の16%は2,500人以上が居住する都市に住み、国の歳入の3分の1は製造業から上がった。都市型製造業は主に合衆国北東部に限られていた。綿布製品が主導的製造業であり、靴、毛織物および機械類も拡大した。多くの新しい労働者が移民してきた。1845年から1855年の間に毎年30万人ほどのヨーロッパ人が移民してきた。その大半は貧しく東部の都市に留まり、そのまた多くは到着した港湾市にとどまった[23]。, 1852年、N・M・ロスチャイルド&サンズが米国鉄道債に初めて投資した(ペンシルベニア)[24]。 1971年、8月に来るべきニクソン・ショックがおこり、12月にスミソニアン協定が結ばれた。, ホワイトカラー層がブルーカラー層を数の上で凌駕し始めたこと、加えて生活水準が向上し、技術革新とコストダウンも相俟って結果として住宅・自動車・家電製品といった耐久消費財が普及し、大衆消費社会が本格化した[94]。ここにアメリカ的生活様式という言葉まで生まれた。その姿は第二次世界大戦の前や戦時中に全盛となったハリウッド映画、さらには普及し始めたテレビに流れる映像によって世界中に知られるようになり、多くの国ではアメリカに少しでも追いつくことがその経済目標になった。一方で、1962年にマイケル・ハリントンがその著書『もう一つのアメリカ』で指摘したように「この国におよそ5000万人の貧民がいる[99]」状況も注目され、リンドン・ジョンソン大統領(在任1963年-69年)のときに「貧窮との戦い」が宣言された。貧困率は1959年の22.4%から1973年は11.1%に減少した。1980年代から2018年の期間は11%台から15%台の範囲内で推移し[100]、2019年は11%を下回る10.5%となり、1959年以降最少となった。また、2019年の貧困者数は約3,398.4万人である[100]。1960年代末から1970年代初めにかけて、コーリン・クラークのいう産業のサービス化が進んだ。これにより収入の不均衡はかつてない位に劇的に増加した。しかしアメリカ合衆国の消費者は1970年代のインフレで多くの物を買えなくなった。1968年、合衆国のジニ係数(国民所得分配係数、0.5を超えると不平等格差が大きく問題となる)は0.388[101]となった。この値は日本の0.381にほぼ等しく、イギリス (0.368) やカナダ (0.331)より高かった。, 1960年代後半、この凄まじい経済成長が減速していることが明らかだと見る者がおり、1970年代になるとスタグフレーション(景気沈滞下のインフレ)が誰の目にも明らかになってきた。リチャード・ニクソン大統領が賃金と実物価格の統制を試みた。1970年代は環境問題や消費者運動が高まった時期でもあり、政府は新たな規制や職業安全衛生管理局、消費者製品安全委員会およびアメリカ合衆国原子力規制委員会など規制を行う組織を設立した。, ブレトン・ウッズ協定が1971年から1972年に掛けて崩壊し、ニクソンは連邦準備制度の金の窓口を閉鎖し、合衆国は金本位制から完全に離れた。この間1971年12月、ハント委員会(President's Commission on Financial Structure and Regulation)が開かれ、定期性預金の預金金利最高限度を廃止してマクファーデン法のモーゲージ規制を骨抜きにしたり、特に貯蓄貸付組合と相互貯蓄銀行をモーゲージ貸付に誘導したり、連邦住宅局保険付貸付・復員軍人局保証貸付によるモーゲージ金利最高限度額規制を廃止したり、全金融機関で住宅モーゲージ貸付由来の利子所得に特別税額控除制度を適用したりすることが同委員会より勧告された[102]。1973年10月に金融機関法案が同委員会の勧告を多分に盛りこみ上程された。1975年以降、議会に追及されながらも連邦準備制度が通貨供給量を増やしていった。連邦準備制度の独立性保証が先のハント委員会で勧告されていた。このような一握りの人間が計画した官民連携が、西海岸の住宅ローン、特に将来のサブプライムローンが太っ腹に組まれる条件としての資産インフレを招いた。, 1973年に証券取引委員会が再び活躍を始めた。エクイティ・ファンディング事件を摘発したのである[103]。エクイティ・ファンディングをつくったのは例によってボストン出身の、しかもバーニー・コーンフェルドを目指す、Michael(Mike) Riordan という男だった。マイクは1966年にドレフュス商会の幹部を引き抜いて自分の投信事業部で働かせていたが、1969年1月に変死をとげた。マイクは独立する以前にKeystone organization という投信会社の営業をやっていたが、そこの精鋭にGordon McCormick という男がいて、予めInvestors Diversified Services で鍛えられていた。ゴードンは考えた。まずミューチュアル・ファンドを売り、それを担保にローンを組ませ、ローンで借りた金で保険料を払わせるというアイディアを。それは良い手数料稼ぎであった。このセット販売に対して証券取引委員会は1962年に登録義務を課した。エクイティ・ファンディングは翌年半ばから登録するようになったが、証券取引委員会は登録義務が十分に果されていないのも分かっていたし、キーストンがエクイティ・ファンディングを営業に使ってファンドを売りまくっていたことも知っていた。このような手数料割戻しの疑われる状況に、証券取引委員会は調査を試みながら資料の散逸とニクソンの不干渉政策に阻まれていた。しかし手に入った1965年までさかのぼる記録からは、保険証券の架空販売を中心とする20億ドルの詐欺行為が証明できたのである。保険業界アナリストのRay Dirks が1974年に独自の調査報告をまとめ、その中でこう記した。「5月の初め、もうすでに包囲されたエクイティ・ファンディングの業務部で、『ウォーターゲート事件よ、ありがとう』という表示が出た。(中略)エクイティ・ファンディングは新聞の一面に登場することを免れたのである」[104], ジェラルド・フォード大統領は「今こそ、インフレを倒せ」(Whip Inflation Now)という実を伴わないスローガンを打ち出した。労働生産性が1974年には前年比マイナス1.5%、翌1975年には前年比マイナス1.0%にまで鈍化し、1976年になりようやくプラスに転じた[105]。1976年、ジミー・カーターが大統領に当選した。カーターは後にさらに大きな経済変動の時代を到来させたと大いに非難されたが、この状況はカーターのやれる範囲を超えていたと指摘する者もいる。, 物価はうなぎ登りに上昇した。労働生産性の成長はマイナスではないものの、微々たるものであった。金利は高止まりし、プライムレート(最優遇貸出金利)は1981年1月に20%に達した。アート・バックウォルドは、1980年が地方の銀行よりもマフィアに借りた方が利子が安くなる歴史的な年になると皮肉った[106]。, 失業率は1975年から1979年にかけて着実に減少していたが、その後急速に上昇し始めた。, 規制緩和の動きはニクソンが辞任したときに始まり、フォード、カーターおよびレーガンの政権下で超党派の動きとなった。最も重要なのはエネルギー・通信・輸送・金融各分野から、グラス・スティーガル法とニューディール政策の規制を取り去ることだった。預金と貸付の規制を急いで緩和したが、一方連邦保険はそのままだった。これが預金・貸付危機となり、政府は推計で1600億ドルを失った。間接金融から逃避した資本は投資銀行の日欧進出を勢いづけた。なお、エネルギーは規制緩和の裏でカリフォルニアが固定価格買い取り制度を導入し、21世紀のスマートグリッド構想を草分けた。, 1981年、ロナルド・レーガンが財政拡張政策であるレーガノミックスを導入し、連邦所得税の累進課税率を25%下げた。インフレ率は1980年の年13.5%から1983年の年3%まで劇的に低下した。これは短い景気後退と、連邦準備制度のポール・ボルカー議長が通貨供給量と利率を締め付けたことによっていた。実質GDPは1980年から1982年に収縮した後、成長を始めた。失業率は上がり続け、1982年後半に10.8%にも達した。一方、レーガノミックスは高金利政策も採用していた。それでアメリカとそれ以外の国の内外金利差が拡大しドル高傾向となっていた。そのため、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(日米英独仏)の蔵相が集まり、過度のドル高を是正することが決定された(プラザ合意)。その後失業率は急速に下降し、レーガン政権末期の1989年1月には5.4%のレベルになった。, レーガン政権を批判する者は、レーガンが大統領である間に上流社会経済階級と下流社会経済階級のレベル格差が拡がったという事実を指摘することが多い。レーガンの政策で生まれた国債は3倍(1981年の9300億ドルから1988年の2兆6000億ドル)と記録的なレベルに達したことも指摘している。20世紀後半のレーガン以前のどの大統領も、GDPに占める国債の比率を減らしていた。財政赤字に加えて、アメリカは巨額な貿易赤字も始まった(双子の赤字)。そこでレーガンは2期目の1986年に税制改革法を成立させた。このような形式だけでなく、あてになる金策を用意してあった。レーガンの高金利政策はドル高に着目するかぎり自滅的であったが、そうして集めた研究資金がプロパテント政策と相乗効果をあげた。知的財産と渉外産業の競争力を引き上げるというプロパテント政策は、すでに1980年のバイ・ドール法(Bayh–Dole Act)により始まっていた。この法律は、連邦資金によって研究開発した特許等を大学や中小企業が取得して活用する、スピンオフを認めるものである。大学にはメロン財閥が作るような財団と関係するものが多い。しかも大学は企業に技術移転をする窓口を設けた(TLO)。そして合衆国の財閥は投信で中小企業も支配した。プロパテント政策は税制改革のころに具体案が提出され、一方でウルグアイ・ラウンドが知財・渉外産業の門戸開放を実現した。1988年アメリカ合衆国大統領選挙で、前副大統領のジョージ・H・W・ブッシュがレーガンの後継者に選ばれた。ブッシュ政権の初期経済政策は基本的にレーガン政策の継続だった。1990年代初めに妥協に走り、議会民主党との協議で増税を行った。障害を持つアメリカ人法のような規制法に署名したり、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)の交渉を行ったりもした。1992年、ブッシュと第3の政党候補者ロス・ペローが民主党のビル・クリントンに敗れた[107]。この90年代にミューチュアル・ファンドが「バイ・ドール方式」と一緒に欧州とアジアへ大量輸出された。, その後の規制緩和とグローバル化で、合衆国の会社がその製造や重工業を低賃金である第2、第3世界へ移すようになった。これが追い討ちをかけて、アメリカにおける所得の不均衡は劇的に増大した。2005年、合衆国のジニ係数は0.466[101]に達した。この値はマレーシアやフィリピンの0.461と同じ水準となり、中国 (0.44)よりかなり上となった。共和党と民主党の両政権が1960年代以降に採用した「自由貿易」と「市場開放」などの経済政策は、次のように批判される。すなわち、貿易や合衆国における生産コストに恩恵を与えた一方で、合衆国の中産階級からその繁栄を取り去った。この期間、確かに消費者はかつてなかったほど多くの製品や商品を低価格かつ高品質で買っていた。もっとも、買い物予算はローンが残っている土地・住宅の資産インフレが生み出した可処分所得だったのかもしれないが。, 1970年代以降、日本の自動車や家電製品がアメリカ国内でシェアを伸ばした。1980年代に入ると小型低燃費で品質が向上した日本車が輸出を一層拡大した。米国内の自動車産業と、部品をつくる鉄鋼・板ガラス産業は壊滅的な打撃を受けた。半導体を巡る対立がもっとも深刻だった。デトロイトでは人口流出が続きピーク時から半減し、人口の8割が黒人となった。対日貿易赤字が拡大する中で、牛肉等の畜産物や米・柑橘類の農産物に係る日本の関税に対する批判が高まり、ジャパンバッシングと呼ばれる反日キャンペーンがおこった(貿易摩擦)。そこで1988年に「包括通商・競争力強化法」(スーパー301条)が施行された。それは不公正な貿易慣行や輸入障壁がある、もしくはあると疑われる国を特定し、輸入品に対する関税引き上げという強力な報復制裁措置を行うというものだった。1989年7月14日の日米首脳会談の席上、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が宇野宗佑総理大臣に日米構造協議を提案し実現した。その結果、日本の公共投資の拡大、土地税制の見直しや大規模小売店舗法の規制緩和が進められた。このような国のあり方や文化にまで範囲を広げる交渉は前例の無いことだった。, なお、メガバンクの世界金融危機とその他に負う数々の責任が社会の目に明らかとなりつつあった矢先、デトロイトは2013年に財政破綻した。メガバンクの中には投資信託を売りまくるものもあったし、オイルショック時代に株価下落と金利上昇が起こる中で金を採掘する鉱山会社とのつながりから資金をほしいままにしたものもあった。そういう銀行にかぎって、世界金融危機のときサブプライムローンを投資信託のポートフォリオに混ぜて売っていたし、危機後に金採掘のピッチを上げたり英国ロンドンの貴金属市場で価格操作をしたりもしていた。そもそも日本製自動車の競争力は、合衆国の自動車会社が従業員の保険制度を手厚く保護し負担を価格に転嫁しており、日本ではそういうことをしていなかったという、ダンピングとは無関係の相対事情が生んだものであった。そして、そのアメリカで一番潤っている銀行団はデトロイトを助けなかった。彼らは1970年代に貯蓄貸付組合へ危険な投資信託を売りつけ、レーガンとブッシュの時代にS&L危機を引き起こした。自治体や組合をばかにしてきたのである。, 1990年代、国債は75%増加し、名目GDPは69%増え、株式市場はスタンダード・アンド・プアーズ総合500種株価指数で3倍以上に成長した。, 1994年から2000年まで実質GDPは増加し、インフレは適度に抑えられ、失業率は5%以下に落ち、ドットコム景気と呼ばれる株式市場の活性化に繋がった。1990年代後半は宣伝の行き届いたハイテクとドットコム会社の株式新規公開で特徴付けられる。しかし、2000年までに株式評価の明らかなバブルが起こり、2000年3月からは市場が1990年代の成長の50%から75%にまで落ち込んだ。経済は2001年に入っても悪化し、実質GDP成長率はわずか0.7%増[85]に留まり、失業率や企業破綻は確実に増加し、また不況の引き金を引いたのはしばしば2001年アメリカ同時多発テロ事件だと言われている。, 2001年から2007年まで、アメリカ合衆国中で過熱した住宅市場によって、アメリカ経済の強さに関する安全性に偽りの神話が作られた。この住宅ブームとバブルについてその責の幾らかはクリントン政権によるものと主張する者が多い。ニューヨーク・タイムズはクリントン政権が1990年代後半にサブプライム融資を強く推進したことに関して、「住宅抵当権で国内最大の引受け機関であるファニー・メイ(アメリカ政府支援の住宅投資機関)がクリントン政権からの高まる圧力の下に収入が中下層の人々に抵当権付貸付を拡大してきた」という記事を載せた。[108], 1995年、クリントンはカーターによる1977年の地域社会再投資法を変更し、赤線引き(特定地域の住民には融資しないなどの投資差別)を規制し強化した。これは長年65%程度に留まっていた持ち家率を上げるためになされたと多くの者から受け取られた。その結果は財政制度によってよりリスクの大きい貸付に大きな投資を促すことになった。1993年から1998年の305の都市における貸付傾向に関する2000年の財務省調査では、地域社会再投資法による貸主から4670億ドルの抵当権付貸付が中下層収入者やその周辺に注ぎ込まれたことを示していた[109]。, さらにビル・クリントンの下でホワイトハウスは重要な規制を外しもした。ワシントン・ポストは次のように書いていた。, 1999年、グラム・リーチ・ブライリー法が制定された。同法が一部撤廃したグラス・スティーガル法は去る暗黒の木曜日をきっかけに生まれた。金融会社の一部にあった多くの不法行為がそこで暴かれ、同法が利潤と不正行為の紛争を防止するために商業銀行と投資銀行の財務制度をその事業に応じて分離することになった(銀証分離)。しかし今度制定されたグラム・リーチ・ブライリー法は、実質的に銀行の自由な領域を増やし、銀証分離を撤廃した。これをワシントン・ポストは次のように書いた。, ビル・クリントンがホワイトハウスに居た間に強制された投資とグラス・スティーガル法の撤廃はサブプライム融資の幾何級数的な成長に大きく影響し、2007年から2008年の金融危機の伏線となったと主張する者が多い。, 左のグラフを見ると個人消費がGDPへ過剰に貢献していることが分かる。しかし大衆の所得が消費をまかなったわけではない。1980年代から米経済は機関化して、合併等による企業再編を数え切れないほど経験していたが、そこで社会保障をふくめた労働単価は全体的かつ大胆に抑えられた。消費を給与でまかなうことができない人々は、シャドー・バンキング・システムを通して融資を受けた。住宅価格の上昇がもたらした資産効果で住宅ローンが組まれた。証券化により名目GDP対比率でマイナスになるまで貯蓄は減少した。, 2008年、予想を超えた経済恐慌がアメリカと全世界を襲った。最も重大なことはカリフォルニア州とフロリダ州における住宅バブルが弾けたことであり、また住宅価格や建設業界が崩壊したことである。数多くのモーゲージ(抵当権、平均して20万ドル)がCDO(債務担保証券)と呼ばれる証券となり、世界中で再販された。多くの銀行や巨大ファンドが数千億ドルを借金してこれらの証券を買っており、その価値が不明で誰も買おうとしないために今や「毒物」となった。アメリカ合衆国とヨーロッパの大銀行が次々と崩壊した。2008年5月、ベアー・スターンズはJPモルガン・チェースに買収され傘下に入った。また、9月15日にはリーマン・ブラザーズは6130億ドルの負債を抱えて倒産[111]、それを受けてバンク・オブ・アメリカはメリルリンチを吸収合併した。有数の保険会社AIG、トップ銀行のシティグループおよび2つの最大抵当権会社が政府の救済を仰いだ。ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは投資銀行から銀行持株会社に転換を発表し、当局の規制を受けながらも生き残りを模索した。合衆国議会は7000億ドルの救済資金を拠出し(TARP)、資産家と連邦準備制度は金融システムを支えるために数兆ドルを投入したが、景気減退を覆すまでには至らなかった。連邦資金が投入されたにも拘わらず、銀行は貸付政策を劇的に引き締めた。例えば、自動車ローンを得ることも難しくなった。政府は初めて大銀行の主要株主になった。株式市場は40%急落し、資産を10兆ドル減らした。住宅価格は国中で20%低下し、さらに3兆ドルを減らした。2008年遅くまでに困窮は金融や住宅部門以外にも拡がり、特にビッグスリーと言われる自動車産業(ゼネラルモーターズ、フォードおよびクライスラー)は倒産の瀬戸際にあり、小売り部門がかなりの弱さを示した。7000億ドルの問題資産救済プログラムを批判する者は、銀行にばらまかれたその金の大半が行方不明であり、銀行もこの問題を隠していると、怒りを露わにしている。, バラク・オバマ大統領は、財政支出と税金を削減することで8000億ドルから9000億ドルを刺激する法案である2009年アメリカ復興・再投資法を裏書きした。この計画は、経済不況の時に財政支出が個人消費の落ち込みを相殺するというケインズ理論に基づいている。そうでなければ個人消費の落ち込みが永続化し、労働時間や失業という生産資源が浪費されるというものである。批評家は、政府が民間部門から金を借りなければならないために、個人消費の落ち込みを相殺できないと主張している(押し出し効果)。しかし、大半の経済学者はこの押し出し効果がゼロかそれに近い金利であり、経済が停滞気味の時の問題であるとは考えていない。刺激効果に賛成する者は、将来のインフレの可能性とそのような大規模支出によって国債が増える問題を指摘してもいる。, 2012年12月31日にアメリカ合衆国連邦政府の赤字は16兆4000億ドルの債務上限額に達した。デトロイトが財政破綻した翌年7月からシークエスター[112]が、10月には債務上限の上乗せ法案が議会を通らずにガバメントシャットダウンが始まった。同月17日には上限引き上げの時限立法がなされた。ロイターによると、30日に70億ドルのデフォルトに陥った。, ファニー・メイとフレッディ・マックは紙幣を印刷する免許を得たに近い状態となった。この2社は政府が返済を保証するという概念を元に市場利率よりも低い利率で金を借り、市場利率で返済する抵当権付貸付をその金で購入した, ブリテン諸島(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)だけでも1800年の人口は1600万人いたと推計されている。, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 70頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 85頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 86頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 96頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 88-91頁, ミラ・ウィルキンス 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Fogel: The Argument for Wagons and Canals, 1964," (2007), ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 114頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 112頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 113頁, ベンジャミン・グレアム、スペンサー・B・メレディス 『賢明なる投資家 財務諸表編』 パンローリング株式会社 2001年 65頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 208-209頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 797-802頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 879-887頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 956-968頁, ミラ・ウィルキンス 『アメリカにおける外国投資の歴史 1607-1914』 ミネルヴァ書房 2016年 968-973頁.

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