ただ、総理大臣は与党の党首が与党議員の信任を中心にして国会で首班指名を受けますので、その与党政党の規約で党首職に再選制限が設けられていたり、党首に再選されなかったりした場合にはその時点で総理大臣を辞めることになります。その政党の規約が事実上の任期の上限になると言えるでしょう。, アメリカ大統領の任期は1期が4年で連続2期までなので、最長8年になります。ロシアは1期6年で連続2期まで、つまり12年です。プーチンは2008年まで2期大統領を務めた後に一旦首相になって、2012年から再び大統領職になるという手順を踏みました。この方法だと2018年の改選を経て問題がなければ2024年まで大統領職に就くことができます。 初代総理大臣伊藤博文の腹心で、伊藤内閣では文部大臣や外務大臣などを歴任しました。ソルボンヌ大学に学び、立命館や明治大学、日本女子大学などの創設にも関わっていて自由主義的な教育の普及に尽力しています。, 池田隼人は岸信介の後を受けて、1960年7月から東京オリンピックの閉会式の翌日1964年10月25日に退陣を表明し、1964年の11月までの1575日の間、第58代から第60代の総理大臣を務めました。 内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、英: Prime Minister[3])は、日本の内閣の首長たる国務大臣[4]。文民である国会議員が就任し、その地位及び権限は日本国憲法や内閣法などに規定される。, 内閣総理大臣は、行政権の属する内閣の首長で(日本国憲法第66条1項)[5]、その他の国務大臣を任免し(憲法第68条)、内閣を代表して国会に議案を提出し、一般の国務および外交関係を報告し、行政各部を指揮監督する(憲法第72条)。, 議院内閣制により、国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)により指名され(憲法第67条)、これに基づいて天皇は形式的な国事行為として内閣総理大臣を任命する(憲法第6条)[5]。, また、内閣総理大臣は、文民でなければならず(憲法第66条2項)、自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法)。内閣府ほか複数の行政組織の長でもあり、これらは内閣総理大臣が直接所管する。, さらに、内閣総理大臣は、三権の長の一人(行政府の長)である。現行憲法の日本国憲法においては、日本の元首について明記された条文がなく、誰が日本の元首であるかについては議論があるが[6]、学説上は内閣あるいは内閣総理大臣を元首とするのが多数説であるとされる[7]。この他、内閣総理大臣が元首的な地位にあるとの見解や[8]、儀礼的な象徴の地位にある者が元首的な性格を持つとして天皇を元首とする見解[7]、天皇と内閣総理大臣が元首の役割を分担しているとの見解等がある[9]。なお、国際慣行上は天皇が元首として遇される[10][6]。, 略称、通称に総理大臣[5](そうりだいじん)、総理[5](そうり)、首相[5](しゅしょう)、宰相[5][11](さいしょう)がある(詳細後述)。, 内閣総理大臣も内閣の構成員であるが、日本国憲法下では内閣総理大臣を内閣の「首長」と位置付けている。内閣総理大臣は他の国務大臣の上位にあって内閣を統率し、外に対して内閣を代表する。さらに行政各部を指揮監督する権限を有する[12]。, 大日本帝国憲法とは違い、現行の日本国憲法には日本の元首に関する規定がない。このことから日本の元首については様々な議論があり、実質的機能を重視し内閣(または首相)を元首とする説なども存在する[13]。, 学説の大多数は、条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、内閣を代表する内閣総理大臣を元首としている。元首は少なくとも対外代表資格を有する国家機関を指すとし、これにあたる内閣の長たる内閣総理大臣が日本の元首といえるとする説がある[14]。元首的権限は内閣が持ち、内閣の長たる内閣総理大臣が元首的地位にあるとの見解がある[15]。, 一方で、元首は対外的に国家を儀礼的に代表する権限をもつだけで十分として、儀礼的な象徴の地位にある者を元首的性格をもつとみる考え方もあり、この場合には天皇が元首とされる[7]。なお、国際慣行上は天皇が元首として遇される[10][6]。天皇を元首または君主として迎える国、元首でも君主でもない形で迎える国、内閣総理大臣を代表者かつ元首として迎える国等、多様にあるとされる[16]。, このほか、内閣府およびその外局(金融庁、消費者庁など)や内閣に置かれる本部などの主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局のひとつである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法など)。, 1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。, 内閣総理大臣は、日本の国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。, 指名選挙は衆議院と参議院の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は両院協議会が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる(衆議院の優越)。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例はないが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会の議決となる(同上)。, ゆえに、事実上、衆議院の多数勢力の意向の通りに、首相の指名がなされる仕組みとなっている。, 指名の結果は、ただちに衆議院議長が職務執行内閣を経由して天皇に奏上する[20]。先例では別途、衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。, 内閣総理大臣の任命は天皇の国事行為の一つであり、すでに内閣総辞職した内閣が、憲法71条に基づく職務執行内閣として、これに「助言と承認」を与える。, 親任式には両院の議長が参列し、天皇が口頭で任命の旨を新首相に伝えた後に、首相が交代する場合は職務執行内閣の首相が新首相に官記を手渡す。首相が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す[21]。, 憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているため、このことから内閣総理大臣の1回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われるときまでとなり、最長でも4年を超えないことになる[注釈 6](憲法第70条)。公職選挙法第57条が規定する繰延投票が行われた場合であっても憲法の規定による日数制限には影響しないので、これによる影響は想定できない。基本的に繰延投票は、特定の投票所における繰延に対する規定[注釈 7]であるからである。, 衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではなく、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。, ただ、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。, また「内閣総理大臣に事故のあるとき」「内閣総理大臣が欠けたとき」は、あらかじめ指定する国務大臣が、内閣総理大臣臨時代理として職務を行う(内閣法第9条)。詳細は後述する。, 内閣総理大臣の職務代行として内閣総理大臣臨時代理が存在する。これは常に置かれる職ではなく、総理大臣に事故あるとき予め指定された5名の国務大臣が、順位通りに就任する。臨時代理就任順位第1位にあるものが内閣官房長官以外の国務大臣であるとき、俗に副総理と呼ばれる。, 内閣総辞職に至るまで無期限に臨時代理が置かれた例としては、第2次大平内閣の伊東正義が、首相死去後に事前指名に基づいて臨時代理に就任し、ただちに内閣総辞職した例、また石橋内閣の岸信介と小渕内閣の青木幹雄が、入院中の首相から指名された直後に臨時代理に就任し、内閣総辞職を行った例がある。首相の外遊中に限って臨時代理が職務を代行した例は多くある。, 内閣総理大臣の補佐職として内閣総理大臣補佐官がある。組織上は内閣官房に属するが、職務上は総理大臣に直属する。この他内閣特別顧問、内閣官房参与、内閣総理大臣秘書官が存在し、総理大臣の職務執行・政権運営を支える。, 明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度によって行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がなく、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。, 1880年(明治13年)ごろから参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった(明治十四年の政変による大隈重信追放は、岩倉具視が宮中を動かして進められたために、伊藤博文も岩倉具視との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤博文はいったんこの提案を取り下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査にあたったが、このときから「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。, これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文をあてるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ(立法議政府、行政宰相府)恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットして近代的内閣制度を突きつけられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。, 1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。, 1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。, 権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏請権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権がなく大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として東條内閣の総辞職原因は、国務大臣の岸信介が辞職を拒否したことによるものであり、また第2次近衛内閣は、外務大臣の松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。, 地位としては、皇室儀制令においての宮中席次は大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置づけられていた。, 任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期から昭和初期までは元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰にともない、昭和初期から終戦までは「重臣会議」の奏薦によって任命されている。, 1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と初めて憲法に明記された。これにともない、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限が強化された。, 日本国憲法施行後の内閣総理大臣については日本の元首とみなす学説も存在する[23]。, 日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免したうえで、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである[注釈 9]。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果はきわめて大きい。, 内閣制度の創設を前に、内閣の首長たる大臣をどのように呼ぶかが問題となった。伊藤や側近の伊東巳代治、金子堅太郎などは日記や備忘録などに「首相」「宰相」という語を用いていた。しかし保守派の太政大臣・三條實美を納得させるためには、日本の指導者の呼称は大化の改新から連綿と続く「○○大臣」である必要があった。そのため、内閣を総理する地位に照らし、「内閣総理大臣」との名称が与えられた。[要出典], 内閣制度の発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「総理大臣」がよく用いられるが、このほかにも、「総理」や「首相」との略称も用いられる。異称として「宰相」が用いられることもある[11]。, 公式の英語表記は「Prime Minister」である。この英訳は内閣制度の導入前より「太政大臣」の英訳として非公式に用いられていた。もっとも、「内閣総理大臣」の英訳としては当初からこの語であったわけではなく、かつては「Minister President of State」(「国の大臣の総理(議長)」の意味)というドイツ風の訳語も用いられた[24]。, 内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後、事実上の宰相として明治政府を切り盛りし内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は藤原北家閑院流の嫡流で、清華家のひとつである三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方、伊藤といえば貧農の出であり、武士になったのも維新の直前という低い身分の出身で、お手盛りで伯爵になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に替わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐむ中で、伊藤の盟友だった井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は伊藤の「英語力」だったのである。, 伊藤の内閣総理大臣就任にともない、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになった。しかしそもそも内大臣は三條処遇のために創られた名誉職で、実際は彼を二階へ上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、逆に尾崎に対しそうした軽挙を戒めている[25]。しかし明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理してほかはすべて却下し、三條に内閣総理大臣を兼任させた。これは「臨時兼任」ではなく、単に「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2か月も経ってからのことだったため、この期間はひとつの別個の内閣が存在したものとみなしてこれを「三條暫定内閣」と呼んでいる。それでも三條實美は歴代の内閣総理大臣としては数えないことになっている。, 現職の内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することがほとんどであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。, 内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として、片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年・2014年)は小選挙区で落選し、比例復活当選をしている。細川護熙(2014年)は政界引退後に東京都知事選挙に立候補し、落選した。, 歴代の内閣総理大臣には旧制東京帝国大学出身者が多いが、後身である新制東京大学の出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また、新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである。田中角栄は学制上での最終学歴は高等小学校卒業である[注釈 10]。また、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はソルボンヌ大学に留学した西園寺公望。また、宇野宗佑は旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学したが、2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て復学せずそのまま中退したため、平成で唯一学士の学位を持たない内閣総理大臣となった。, 内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験などが重視されることが多く、1年生議員が就任する確率はきわめて少ない(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。, 日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3か月である。, 内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位または従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章または桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9か月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、辞退・不祥事などにより見送られることがある(例:田中角栄…不祥事、宮澤喜一…辞退)。, 総理大臣に就任してもおかしくない大物政治家でありながら、早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理大臣」と呼ぶことがある。福田和也『総理の値打ち』(文春文庫)や御厨貴編『歴代首相物語』(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫)や小林吉弥『総理になれなかった男たち』(経済界)など「幻の総理大臣」を特集した書籍も出版されている。さまざまな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎と河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち戦前の徳川家達や戦後の伊東正義のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。, 各列内は五十音順。※ 1 日本の学説の大多数は内閣または内閣総理大臣を元首としている。内閣は定義いかんでは天皇を元首といっても差し支えないとしている。日本の元首も参照。※ 2 ヨーロッパにも分類され得る。※ 3 一部はアフリカに含まれる。, 内閣制度の創設を前に、内閣の首長たる大臣をどのように呼ぶかが問題となった。伊藤や側近の伊東巳代治、, なお、任期満了選挙の場合で、投票日が任期満了の日以後になり、更に特別国会の召集が憲法の定める最大限度まで遅れた場合首相の在任期間が4年を超えることも制度上はあり得なくはない。, 「天災その他避けることのできない事故により、投票所において、投票を行うことができないとき、又は更に投票を行う必要があるときは、都道府県の選挙管理委員会(市町村の議会の議員又は長の選挙については、市町村の選挙管理委員会)は、更に期日を定めて投票を行わせなければならない。」との規定である。, 樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法III(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、216-217頁、219頁, http://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=内閣総理大臣&oldid=80287574, 石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1か月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。, 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出たことを受けて、自邸で, 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出て収監されるが、不起訴となり釈放。, 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は, 内閣総理大臣の交代の頻度では上記の記録を上回って最多となる。特に1945年は年間で4人の首相が在任しており(年間で3回の首相交代)、こちらも最多記録となっている。, 伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) - 1984年(昭和59年)発行)の肖像。, 高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) - 1958年(昭和33年)発行)の肖像。高橋は史上唯一の, 1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日。存命期間102歳48日。, 閣議において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議すること(内閣法4条2項)。, 防衛出動または治安出動による自衛隊に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、, 武力攻撃事態などに際して内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長として、関係する行政機関、地方自治体、指定公共機関が実施する対処措置に関する総合調整を行うこと(, 武力攻撃から国民の生命、身体または財産を保護するため緊急の必要があると認める場合に、警報を発令すること(, 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済および公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、閣議にかけて、災害緊急事態の布告を発すること(, 台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法による災害防除事業等の指定(台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法2条、3条)。, 第一次:2006年(平成18年)9月26日 - 2007年(平成19年)9月26日, 第二次 - 第四次:2012年(平成24年)12月26日 - 2020年(令和2年)9月16日. そこで今回は、安倍晋三首相の任期満了の時期や延長の可能性についての情報をお届けしていきます!, ●第1次安倍内閣
(第90代内閣総理大臣
) 中国の任期は1期5年で連続2期までで、習近平は2017年に2期目に入りましたが3期目も狙っているとの情報もあります。一方、韓国の大統領の任期は1期5年限りで再選はありません。 内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、英: Prime Minister)は、日本の内閣の首長たる国務大臣 。文民である国会議員が就任し、その地位ならびに権限は日本国憲法や内閣法などに規定される。 日本の総理大臣の任期は何年でしょうか。制限はあるのでしょうか。総理大臣の任期について歴代の在職日数から最長、最短などの一覧を紹介します。また、任期延長の方法、在任中に病気などで亡くなったした時の手順などを、関連する事項を含めて紹介します。 そのなかで、最も任期が長かったのは在職日数が2886日の桂太郎です。1901年、明治34年からの第11代、1908年からの第13代、1912年、大正元年からの第15代総理大臣を務め通算の日数で歴代最長になっています。 吉田茂の右腕として活躍、「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業の一部倒産もやむを得ない」というような発言が問題になりましたが、総理大臣になってからは「所得倍増計画」を打ち出して日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家です。. 通算ではなく連続での最長在職日数は佐藤栄作の2798日です。1964年、昭和39年、東京オリンピックが閉幕した直後の11月から1972年7月まで、第1次~第3次佐藤内閣として第61代~第63代総理大臣を連続して務めました。, 歴代の総理大臣の任期について、在職日数の長さを一覧してみましょう。安倍総理大臣は何位くらいでしょうか。, 岸信介は実弟が佐藤栄作で、孫にあたるのが現在の安倍総理大臣です。1957年、昭和32年2月から1960年7月まで第56、57代総理大臣として1241日在職しました。 もちろん、新たに召集された国会で再選は禁じられていないので、国会議員として総理大臣の首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができます。 在任期間:2006年9月26日 – 2007年9月26日, ●第2次安倍内閣(第96代内閣総理大臣
) 内閣官房内閣広報室 〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1 ©Cabinet Public Relations Office, Cabinet Secretariat. 
在任期間:2012年12月26日 – 2014年12月24日, ●第3次安倍内閣(第97代内閣総理大臣
) 第45代目アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプ氏。 大統領就任後も何かと物議を醸し「世界で一番炎上しやすい男」とも言えますね。... 制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができます。. 東條英機内閣の太平洋戦争開戦時に重要閣僚であったことで、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されましたが、不起訴のまま無罪放免されています。総理大臣在職中は日米安保体制の成立に尽力し、60年安保闘争の苦境を乗り切って退任しました。, 西園寺公望は、明治から大正にかけて歴代1の桂太郎と交互に総理大臣を務めました。1906年1月から1908年7月までは第12代、1911年8月から1912年12月までは第14代総理大臣として、通算1400日在職しています。 在任期間:2017年11月1日 – 現職, 第1次安倍内閣が発足しましたが、その後潰瘍性大腸炎を患ったことが原因で2007年9月26日に辞任。, その後療養を経て復帰し、2012年12月26日に第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足しました。, 2019年9月11日に発足された第4次安倍第2次改造内閣で、通算組閣回数は11回となりました。, これにより首相通算在職日数は「2887日」となり、それまでの桂太郎氏の2886日を抜き、歴代最長となりました。, 憲法では「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならない」とされています。, そのため、内閣総理大臣の1回の任期は次の衆議院議員総選挙後に最初の国会の召集が行われるときまでとなるので、衆議院総選挙の周期、つまり4年が最長の任期ということになります。, この規定は新たに召集された国会での再選を禁じるものではないため、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができます。, ただ、通常内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ています。, その政党の内規で党首職に再選制限が設けられていたり、党首に再選されなかった場合は、その政党の規約が事実上の任期の上限となることがあります。, 任期いっぱいまで首相を務めると、在任期間は3567日となり自身の記録を抜くこととなります。, 安倍晋三首相ご本人は、期間延長については「本当に考えていない。頭の片隅にもない」と語っています。, これまで連続して2期6年までしか務められなかった自民党総裁の任期を連続して3期9年まで務められるようにした。, ただ、コロナウイルスの対応や「桜を見る会」の問題などで支持率も低下していることをかがえると期間延長の可能性は低いのではないかと考えられます。, 2021年3月頃まで党則の改正が行われなければ、期間延長の可能性は無いと見てよいでしょう。, トランプ大統領の任期は最短でいつまで?今の支持率から次期選挙で再選の可能性を調査!. 日本の第98代内閣総理大臣を務める 安倍晋三首相 。 内閣総理大臣としての通算の在職期間は歴代最長ということは知られています。 任期は一体いつまでなのか 気になる方も多いことでしょう。 任期なしの無制限ということになりますが、任期についてはいくつかの制限があります。どのような制限なのか確認してみましょう。, 憲法では、衆議院議員総選挙後の最初の国会召集のときに、内閣は総辞職をしなければならないとされています。ということは、内閣総理大臣の一回の任期は次の衆議院議員総選挙後の最初の国会召集が行われる時までとなるので、内閣不信任案の可決や衆議院解散などがない限りは衆議院総選挙の周期、つまり衆議院議員の任期の4年が総理大臣の最長の任期ということになります。 記載されている内容は2017年11月09日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。, また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。, 日本の総理大臣の任期は何年でしょうか。制限はあるのでしょうか。総理大臣の任期について歴代の在職日数から最長、最短などの一覧を紹介します。また、任期延長の方法、在任中に病気などで亡くなったした時の手順などを、関連する事項を含めて紹介します。, 総理大臣は正式には内閣総理大臣と言われるように、内閣の首長となる国務大臣です。国会議員の中から国会の議決で指名され、これに基いて天皇によって任命されます。内閣総理大臣の任期について憲法や法律で直接的に規定した条文はありません。 
在任期間:2014年12月24日 – 2017年11月1日, ●第4次安倍内閣(第98代内閣総理大臣
) これに対して、議院内閣制の首相は原則として任期がないので、たとえばドイツのメルケル首相はすでに12年も首相の座にいます。連立を組んで議会の多数を占め、長期政権を維持しています。, 日本の議院内閣制における初代総理大臣は1885年からの伊藤博文です。その後、現在の安倍総理大臣が2017年11月第98代として再任されるまで、132年間で62名の総理大臣が輩出されています。平均の任期は2年強というところです。 備 考: 1: 歴代の欄中( )内の数字は、内閣を組織した者を順次数えたものである。 2: 内閣総理大臣の在職期間中に臨時代理等に指定された者の掲載は省略した。

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