これに対し激怒した橋本は「バカバカしい、俺は出場しない」と発言。, ●1998.12.25新日オフィス 続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学の金野潤に判定負けして3位に終わった。 6月には体重別の準決勝で正木を判定で破るも、決勝で斉藤に小内巻込で効果を取られて2位にとどまり、オリンピック代表にはなれなかった。 *文中、一部敬称略 ↑橋本はノートンとのIWGP2回連続挑戦失敗、を見てわかる通り、明らかに冷遇されていました。 ただでさえ、猪木が作った『ufo』との不協和音が伝わってくるのに、坂口征二社長(当時)を襲撃したり、試合前のルールミーティングを欠席したり、どんどん怪しさを増す小川の行動。橋本が不安に思っても無理はないだろう。 小川サイドだけではない。 小川vs橋本再戦、橋本が顔面蹴りで激勝。 ●1971年 !何がハッスル1だよ。ふざけたこと抜かしやがってプロレスなめてんだろ、お前!あぁ⁉」とテーブルをひっくり返し、同席していた橋本の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。, ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ち。ジャイアント・シルバにはマウントパンチでTKO勝ち。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1R54秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に努め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、熱烈な小川コールを送った。, PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では、小川直也ではなく、「キャプテン・オー(後にジュードー・オー)」としてメインに出場した。, 同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。, 2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月に突然の病気で亡くなった戦友・橋本の入場曲「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達はハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。, 試合は吉田に腕ひしぎ十字固めで見込み一本負けを喫したが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中骨が折れる音をマイクが拾っている)。最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、「自分ならばあのような状態では戦えない」と語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。また小川は吉田に対しては後のインタビューで、「あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよ」と理解していた。, 2007年6月、ハッスルのストーリーでは、高田モンスター軍に移籍。『セレブ小川』として活動し、卑劣な戦法や相手レスラーを罵倒する守銭奴キャラを見せ、観客から大ブーイングや「しょっぱい」コールを浴びる。高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、本人はそれを受理、一時的に離脱した。, 2007年6月29日、アントニオ猪木が主催するIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」に参戦。マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。以降、IGFを主戦場とする。, 2007年12月20日、「GENOME2」のメインイベントで安田忠夫と対戦。レフェリーにまで暴行を加え、師匠のアントニオ猪木に造反するものの、裸絞めで失神させられた。, 2008年2月16日、「GENOME3」でジョシュ・バーネットと対戦、4分48秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫するも、ロープに手がかかっていたと小川が抗議。すぐに再戦が行われ、5分13秒STOボンバーからの片エビ固めで勝利を収めたが、試合後は乱闘となり、来場した田村潔司とも小競り合いとなり波紋を残した。, 2010年7月、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格。ジャンボ鶴田と全く同じ学科・専攻の後輩となる。, 2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学んだ[33]。なおプロレスラーとしての活動も継続しており、2011年8月27日に行われた「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」では澤田敦士との対戦で久々にリングに上った。, 2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で藤田和之と対戦したが、レフェリーストップ負けを喫した。2013年3月、筑波大学大学院を修了[34]。, 2016年2月26日のIGF・東京ドームシティホール大会で青木真也と対戦して勝利。, 2018年6月11日、「息子(小川雄勢)の指導に専念したい」としてプロレス及び総合格闘技を引退して柔道界への復帰を目指す方針を明らかにした[35]。, 「Sports Graphic Number」917・918合併号記事内「夢の有馬記念 Dream Race 1990-2016」でのロングインタビュー『オグリキャップ&武豊 奇跡1990 「26年目のオグリコール」』, 極上ワールドレコーズ 芸能人ドリームマッチ 僕らも世界一になっていいですか? 橋本、ノートンのIWGPに挑戦するも敗れ、王座戦二連敗, ●1998.11.16横浜文化体育館 坂口社長名でマスコミ各社に「橋本を無期限出場停止処分とする」旨のFAX通達 猪木新団体U.F.O.旗揚げ戦 11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に補欠として出向いたが、当初2階級に出場する予定だった正木が初日の95 kg超級初戦でベリチェフに敗れた際に持病の腰痛を悪化させたため無差別には出場できなくなり、代わって小川が出場することになった[9]。2回戦は指導勝ち、3回戦は判定勝ちと予選ラウンドはややもたついたものの、準決勝ではソ連のハビル・ビクタシェフを合技で下すと、決勝ではイギリスのエルビス・ゴードンと対戦して開始すぐに払腰を返されるが場外でポイントにならず、その後小外刈で技ありを取って優勢勝ちして、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンとなり、一躍1988年ソウルオリンピック95 kg超級代表の有力候補となった[9]。 12月には史上最年少で世界チャンピオンになったことが評価されて、日本スポーツ賞大賞を受賞した。, 1988年4月には推薦で全日本選手権に初出場するが、準々決勝で86 kg級の選手である旭化成の大迫明伸に中盤以降何度も崩されたことによって判定で敗れて、斉藤、正木とのオリンピック代表争いから大きく引き離された[10]。 小川が新日プロ坂口征二社長に控室で暴行騒ぎ ↑これに対し長州も紙面で対抗。猪木と長州の対立も表面化し始めます。, ●1998.10.24両国国技館 藤波vs長州の「名勝負数え歌」の副産物として、「テロリスト」藤原喜明の大ブレイクも外せません。 小川 直也(おがわ なおや、1968年3月31日 - )は、日本の柔道家、総合格闘家、平成期のプロレスラー。, 全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。明治大学経営学部経営学科卒業。筑波大学大学院人間総合科学研究科コーチング学専攻博士前期課程修了。実業団柔道ではJRA職員として活躍。長男の小川雄勢も柔道家で2014年の高校選手権無差別で優勝[1]。, 私立八王子高等学校の面接試験の際には、体格のよさを後に恩師となる面接官の小野実に見込まれて、入学したら柔道をやってみないかと問われた際に、本当はラグビーに興味を持っていたが、印象を良くするために柔道をやってみたいと答え、無事合格を果たした[2][3]。, 八王子高校に入学後、柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、インターハイ重量級では優勝した天理高校の中谷弘に敗れて入賞はならなかったが、国体では世田谷学園高校の古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。, 後の述懐では、高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったと回想していた[4]。, 1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実(当時の上村は全日本の監督も引き受けていたために忙しく、助監督である原が道場で小川に直接指導することが多かった)の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学の関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた(後の引退会見の時に、この試合での優勝が一番印象に残っていると述懐した)[3][5]。 新日のSGタッグリーグ開幕戦で永島取締役と橋本が同席して記者会見 スキャンダラスでセンセーショナルな猪木プロレスの原点と... ①「馬場と猪木」に続き、いよいよ今回は時系列で事件の真相に迫るドキュメント編です。 しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った[19]。11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった[20]。, 1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した[19]。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレを掬投で破った。なお、今大会で小川が3位に終わったことにより、世界選手権の無差別における日本選手の連勝記録が13連覇で止まることになってしまった[3][21]。, 1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた[3]。, 1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリューゲルに指導を取られ敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場すると、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした[3]。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した[22], 1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた[22]。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった[23]。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した[3]。, 柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、いわゆる「3分間柔道」と呼ばれることもあった[25][26]。但し、このスタイルには無駄な時間浪費と批判する向きも合った[17]。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった[14][22]。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。支釣込足や膝車では腕挫腕固を併用するパターンもよく見られた。このような関節技を併用した投げは本来ノースコアとなるが小川の場合はスコアが与えられるケースがあった。小川雄勢がこの技を引き継ぎグランドスラム・東京2017男子100 kg超級決勝戦で小川直也が見守る中この技を出し技ありのスコアを主審が宣したがビデオ判定でルール通り技あり取り消しでノースコアとなった。寝技は抑込技が中心で、絞め技や関節技はあまり使わなかった[27]。しかしながら大きな大会で抑え込一本確実な状態の横四方固からの腕緘(V1アームロック)、肩袈裟固からの腕挫腕固[28]で勝利している。一方で学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった[3]。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった[29][30]。, 柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木と佐山聡の設立したUFOに入団した。, 1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技の「STO(スペース・トルネード・オガワ)」をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利した。, 1か月後の5月3日新日本初の大阪ドームで行われた、同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。, 以降スランプとなり、1997年8月10日の新日本ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日に東京ドームで行われた、猪木引退興行「ファイナルイノキトーナメント」の対戦相手決定トーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との対戦は叶わなかった。, 1999年1月4日、東京ドーム大会[31]における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。小川は橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。, 試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は、小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。小川は橋本を倒し、マウントポジションを取り、頭部を「プロレス的」ではないパンチで殴り、うつ伏せで倒れた橋本の後頭部を踏みつけ、エプロンに逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけ、橋本がリング外に転落すると、その異様な展開に場内は騒然とした。橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。, 「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。ゴングが打ち鳴らされた後、1人リングを占拠した小川は、両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった)、「もう終わりかよ!、おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」、「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った[32]。リング下では、セコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生しており、ついには当時引退し、現場監督だった長州力が、リングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「これがお前のやり方か?」と詰め寄った[32]。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。, この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされ、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど、通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘ではご法度の危険な行為の応酬となり、セコンドの村上和成は混乱の中で、飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い、入院に追い込まれている。, 当時全日本プロレスに所属していた三沢光晴は、全日本プロレス中継内で「プロレスラーが弱く見られがちな試合だった」とコメント[32]。当時の全日本の選手が、テレビで新日本について語ることは異例中の異例であった。, 1999年10月11日、社長に就任した藤波辰爾の意向もありNWA世界ヘビー級王座を賭けての橋本再起試合が決定し、4度目の対戦(レフェリーは藤波)。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたがSTOの連発で橋本はグロッキー状態に。放心状態ながらも何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、それでも試合を続行させようとするレフェリーの藤波に代わってリングサイドで試合を見守っていたアントニオ猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止め、TKO判定により完全に勝利。この試合の模様は、ニュースステーション(テレビ朝日)で取り上げられるなど、注目された試合であった。しかしながら、同番組の格闘技ニュースの選択のしかたが世間の注目度とずれていることがあるとの意見を持つ久米宏が降板している時期の出来事だった。, 2000年1月4日タッグマッチで橋本・飯塚組と対決(パートナーは村上和成)。試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川vs橋本、村上vs飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも、橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。, 同年4月7日、橋本と東京ドームでシングル5度目の対戦。橋本はこの試合に負けたら引退すると公表していた。このドーム大会はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、番組のコピー「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退スペシャル」は大きな波紋を呼んだ。, 試合は小川が優位に試合を進めた。橋本は場外からの水面張りで奇襲を仕掛けるが、橋本がオープンフィンガーグローブを外して素手で小川にパンチを入れたことにセコンドの村上が激怒し、リング内に乱入し、その後持ち直した小川はSTO6連発で橋本をKOした。テレビ中継は平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。, 橋本は、リングの魂(テレビ朝日)の企画で、復帰を願い折り鶴を送った純真な少年ファンの兄弟(米川力兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回した。なお、試合後小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。, 橋本との抗争後は、PRIDEに参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。2000年12月31日、Millennium Fighting Arts INOKI BOM-BA-YEで安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ち。安田戦直後のインタビューで小川は「もう仲間同士でやりたくないよ」と発言している。, 2001年4月18日に、宿敵だった橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONEの旗揚げ第2戦(日本武道館)に参戦。メインイベントで三沢光晴とタッグマッチで対戦した(小川、村上vs三沢、力皇猛)。, 試合序盤では、小川は三沢を挑発するも三沢はいなし続け、試合中盤で、力皇を捕らえている時に三沢がカットに入り、エルボーを食らったのが三沢との初遭遇となった。, 食らい慣れていないエルボーの連発に倒れこんだ小川は、仕切り直してスタンド状態で三沢と対峙しミドルキックをいなされると片足にタックルを仕掛けたが、三沢はこれを堪え、がぶる事なく小川の首を上から押さえこみ、主導権を取ろうとグラウンドで動き回る小川に対し的確に背後を取るといったレスリング技術を見せた。対する小川は三沢の足を取りながら立ち上がり、がぶろうとする三沢を大腰でマットに投げ返すとそのまま押さえ込みつつマウントを奪う。小川のパンチを上から浴びせられる三沢はガードを固めマウントからは自力で脱出できないが、力皇が小川の背後から大相撲仕込みの突進を見舞いカット。試合はその後、場外へ落ちた小川を力皇が追い、二人が争ってる最中にリング上で村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発を食らってフォール負けを喫する。, 当然暴れ足りない小川はゴングが鳴った後、リングに上がり三沢に殴りかかった。小川に対し反撃をしない三沢だったが、ノアの選手が上がってきて小川は袋叩きにされ、橋本らもリングに上ってきたが力皇らに押さえ込められ、挙句にはノア陣営全員で勝ち名乗りをされ圧倒されてしまう。これに小川はマイクを取り「数さえ揃えば勝てると思ってるんじゃねえぞこの野郎!」とマイクを投げつけたが、解説の馳浩と吉田秀彦に「負け惜しみですね」「小川は悔しくて眠れないでしょうね」と言われてしまった。, 2002年頃から猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこともあり、主戦場をZERO-ONEのリングとし、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)、「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。, 新日本への参戦時代は、ビッグマッチへのスポット参戦が中心だったことから、同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からマイクパフォーマンスが饒舌になり、プロレスラーとして成長した。, 2004年1月から、PRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、プロ野球選手の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。, ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(ショー的なプロレス)・ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDEがあるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興行的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関してはプロレス(ショー)という事なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇオラァ! 続く学生優勝大会では3位に終わった。 *文中敬称略 ところが社長である坂口征二が「ufoとは絶縁します、ufoの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もufoの選手が上がることはない」と一転してufoとの対抗戦を否定してしまう。 ムタvs小川戦 ↑当時、猪木は引退と同時に新日プロから距離を置かれ(後述)、佐山と小川と共に新団体U.F.O.の旗揚げを目論んでいました。猪木サイドは旗揚げを前に遺恨を作り新日プロとの抗争を模索、これは当然の流れです。, しかし、この小川を使った遺恨作りは明治大学の大先輩である坂口征二、当時の新日プロ社長をガチで激怒させてしまいました。どのくらいガチかというと、坂口は小川のお中元を送り返し絶縁を宣言したくらいです!(真顔), これは当時、大きなニュースとなり、この日の武道館大会のメインで藤波のIWGPに挑戦した橋本戦は話題を持っていかれ、結果的に橋本も激怒します。, ●1998.9  いったいこの試合は何だったのか。舞台裏では何が起きていたのか。, もはや語りつくされた感のあるこの事件ですが、書かない訳にもいかないな、ということで…後年明らかになった事実を基に、つとめて冷静に、時系列で検証したいと思います。, まずはこの試合が組まれるまでの流れです。 U.F.O.旗揚げ第二戦 11月2日 - 京王プラザホテルで猪木が人気女優 倍... ◆第1部 クーデターを企てたキーパソン達のそれぞれの思惑 翌年3月には明治大学を卒業した[4]。, 1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった[2]。小川はプロレスラーに転身後、この部署で担当していた業務について事情を明かしており、「競馬はやはりギャンブルですから、熱中するあまり周りのお客様に迷惑をかける方がいるんですよ。その場合は緊急事態として怪我をさせない程度に抑えつけるというか、早い話がJRA直属のガードマンをやっていました」と解説している[13]。, 社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71 kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。大会後のインタビューでは、古賀が決勝まで上がってくることは全く予想していなかったが、JRAの監督である関勝治に小さい相手ともよく練習しておけと言われたことで、大学の3年後輩で古賀と同じくらいの体格である秀島大介とは特によく練習したことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たと述べた[14] 6月には実業団体2部に出場して、JRAの優勝に大きく貢献した。7月には体重別の準決勝で金野に苦戦するが辛くも注意で勝ち上がると、決勝では関根を朽木倒の有効で破って北京アジア大会代表に選ばれた。9月のアジア大会では日本オリンピック委員会から日本選手団全体の主将に選ばれるが、95 kg超級の準決勝で北朝鮮のファンに合技で敗れる予想外の結果となった。実に2年3ヶ月ぶりの敗戦であった。3位決定戦ではイランのF・ファラヒを上四方固で破った。11月の嘉納杯95 kg超級決勝では金野を判定で破ると、無差別決勝でもフランスのダビド・ドゥイエを小外刈の有効で破り、2階級制覇を達成した[11]。, 1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが世界選手権95 kg超級代表に選ばれた[11]。7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95 kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフに崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サロネンに反則勝ちした。当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した[15][16]。その準決勝ではベルギーのハリー・ファンバルネベルトに小外刈を返されて先に技ありを取られるも横四方固で逆転勝ちすると、決勝ではソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリを体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした[15]。, 1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学4年の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが、1992年バルセロナオリンピック代表に選ばれた[11]。7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを体落と崩袈裟固の合技で下した。決勝は昨年の世界選手権決戦で破ったソ連崩壊でEUN代表となったハハレイシヴィリとの対戦であったが、開始早々に大腰で技ありを奪われると、1分を過ぎたところで小外掛で再び技ありを奪われ合技で敗退して2位に終わった[17]。大会後のインタビューでは、オリンピックで勝ったら柔道を辞めようと思っていたと述べた[18]。 毎年1月4日は「イッテンヨン」。新日本プロレスの東京ドーム興行が行われる日です。 今回取り上げるのは 1999年1月4日 東京ドーム 橋本真也vs小川直也 この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1 続くグルジアのトビリシで開催された世界学生では、95 kg超級に出場してオール一本勝ちで優勝したが、団体戦では2回戦で敗れた[11]。, 1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。 8月のアジア選手権無差別では準決勝で北朝鮮のファン・ジェキル、決勝でも中国の徐国清を破ってオール一本勝ちで優勝を果たした。 しかし、小川をエースとするU.F.O.との抗争となると、どう見ても主役は橋本です。 ... 本Blogでたびたびご紹介する「プロレス」。 ↑一見すると小川vs橋本に関係ない出来事ですが、実は関係あるのです(後述)。, ●1997.4.12東京ドーム この日の会見でも橋本はU.F.O.大会への新日勢の参加を否定する一方で「ウチを潰したけりゃ俺と小川とやるしかない」と発言するなど、やる気を見せていました。, しかし橋本は試合後、高血圧でダウン。長州との軋轢、不摂生と練習不足でコンディション不良を露呈し始めます(この一件は当時、マスコミではほとんど報じられていませんでした)。, ●1998.12.22新日オフィス ①対戦までの時系列の経緯 に続くその③では、TV放送を観た直後の感想をお送りします。 ↑この試合はデビュー以来の橋本との2連戦に比べ、ムタが相手という事でプロレスならではのインサイドワークと奥深さに、まだまだアマチュアアスリートの意識が消えない小川が翻弄された展開となりました。, ●1997年末、長州と小川が衝突 10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95 kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した[12]。 ↑当初のメインは橋本vsケン・シャムロックでしたが、WWF出場のためドタキャン。急遽、小川のデビュー戦が組まれました。当初は長州力とのタッグでデビューする予定の小川でしたが、いきなりドームのメイン、当時のIWGP王者橋本とのシングルマッチという大抜擢(この試合にはベルトは賭けられず)。小川は柔道着のまま試合に臨み「異種格闘技戦」として行われました。小川は橋本の打撃に苦しみますがDDTを大外刈り(STO=スペース トルネード オガワ:猪木命名)で切り返し、そのまま裸締めで9分32秒で勝利。, ●1997.5.3大阪ドーム しかし、多くの方は「プロレスって、いまはテレビでやってないんで... 「”1・4事変”東京ドームでの橋本真也vs小川直也戦を振り返る」 ↑ドーム敗北を受け、今回はIWGPタイトルマッチ。入場テーマ曲を『闘魂伝承』から『爆勝宣言』に戻し(猪木との決別を示唆)試合に臨んだ橋本の顔面蹴りで、小川が失神KO負け(セコンドの佐山がタオル投入)。これで小川と橋本の対戦成績は1勝1敗、デビュー戦の勝ち星を橋本に返したカタチではありますが、フィニッシュの顔面蹴りは強烈無比で、かなり危険。当然、これが伏線となります。, ●1997.8.10ナゴヤドーム  ②試合当日、衝撃の試合展開 ◆第2部 クーデター決行から鎮圧まで に続き、今回は最終回 1982年10月8日の「反乱」から始まった藤波との抗争も丸一年以上が経過した1984年2月3日。当時の新日プロ恒例の雪まつり時期の... 70年代、創成期の新日プロといえばアントニオ猪木vsタイガー ジェット シンの血の抗争劇。中でもこの「新宿伊勢丹襲撃」と「大阪 腕折り」の2つの事件はあまりにも有名です。 新日本プロレスとUFO、様々な思惑が絡む中で1999年1月4日の東京ドーム大会が開催され、橋本真也と小川直也が再び対戦することになった。これまではデビューしたばかりの小川を橋本が迎え撃つ立場となっていたが、橋本は1997年8月31日の横浜アリーナ大会で佐々木健介に敗れてIWGPヘビー級王座から転落してからは、IWGPヘビー級戦線から大きく後退してしまい、また引退しても現場監督として留まる長州力と対立したことで、新日本でも扱いづらい存在になっており、対戦カードへの不満から謹慎を言い渡されてしまい、橋本は新日本や長州への不信感から来るストレスでますます練習をしなくなっていた。小川との3度目の対戦は橋本が心身共に最悪の状況の中で行われ、小川に一方的に仕掛けられた橋本は対処できず、結果は無効試合となったものの、橋本は無残に潰されてしまった。, 試合が終わってから新日本とUFO側との駆け引きが始まり、全試合終了後に長州が会見を開くと「オレは今日という今日はアントニオ猪木にブチ切れた。今日のUFOとの一件は、全てオレが対処する」と猪木に対してへの果たし状を突きつける。長州も1・4事変は新日本とUFO双方ともセコンドが駆けつけて乱闘状態となったことで、小川とUFOという美味しい素材が手に入ったと考えていた。, ところが社長である坂口征二が「UFOとは絶縁します、UFOの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もUFOの選手が上がることはない」と一転してUFOとの対抗戦を否定してしまう。1・4事変を受けて橋本が選手会長を務める選手会から「UFOや猪木と縁を切ってほしい」と現場監督の長州を通さずに社長である坂口に抗議していた。選手会は橋本が選手会長を務めることで事実上牛耳っており、橋本自身が新日本に対して意向を通し、権力を振るえる場ともなっていた。坂口も選手会の意向を無視するわけにはいかず、新日本はUFOを絶縁せざる得なくなっていた。, 2月24日に猪木と坂口が会談して、猪木が1・4事変のことで坂口に謝罪する。猪木が坂口に頭を下げたのは、これまでUFOの興行は新日本がバックアップしてきたものの、新日本が撤退したことで独自で運営せざる得なくなっていたが、3月14日UFO横浜アリーナ大会のチケットが売り上げが伸び悩んでおり苦戦を強いられていたことから、猪木も「やっぱり新日本のバックアップが必要」と感じて頭を下げに来たのだ。猪木から頭を下げたことで坂口の態度も軟化したものの、選手会の決定事項は簡単に覆すことは容易でないことから、猪木に協力することは出来ず、時間を要することが必要と考え、最終的に新日本のUFOの関係は絶縁から冷却期間へと変わったことで落ち着いた。, 新日本の協力を得られなかったUFOは独自で3月14日の横浜アリーナ大会を開催、NWAと提携したことで格闘路線からアメリカンプロレス路線へ転換し、小川もダン・スバーンを破ってNWA世界ヘビー級王座を奪取したが、観客動員は6割の入りで惨敗に終わってしまう。大会終了後のパーティーでは佐山が猪木から小川をPRIDEに出場させるつもりだと明かされると、小川にMMAの練習をさせていないことから、佐山が猛反発して猪木と口論となって、佐山はUFOから撤退してしまう。佐山は元々格闘技は神聖なものと考えており、興行として行うことに抵抗を感じていた。, 橋本は新日本との契約更改は終えたものの復帰のめどが立っておらず、ジャイアント馬場死去後の全日本プロレス5月2日の東京ドーム大会で川田利明相手に復帰戦を計画されたが、オーナーだった馬場元子から丁重に断られていた。それでも永島勝司取締役は橋本の復帰戦の場を設けるために奔走し、新日本プロレス6月8日武道館大会で天龍源一郎相手に復帰戦が決定、橋本もウエートを絞るなどベストコンディションで臨もうとしていたが、橋本は練習中に右肩を脱臼してしまい、痛み止めを打って復帰戦に臨もうとした試合前に長州によって副現場責任者に就任していた越中詩郎から選手会の経費問題のことで追及されてしまう。橋本は復帰戦の前に選手会長を辞任し平田淳嗣が新会長になったが、引き継ぎの際に経費の杜撰さが明らかになっていた。試合前に越中に問題を追及された橋本はメンタル面を低下させてしまい、試合でも天龍のノド笛チョップの前にあっけなく敗れてしまった。, 新日本の状況も変わり、猪木の意向で坂口が社長から会長へと棚上げされ、社長には自身の意向が通りやすい藤波辰爾を就任させた。猪木は最初こそはvsUFOを肯定していた長州に社長就任を打診していたが、長州はジャパンプロレス時代に社長に就任したものの、代表権もないお飾り的な社長を経験していたのもあって、自分が就任しても猪木がオーナーで自身はあくまでお飾り的な立場には変わらないと考えた上で断っていた。, 新社長となった藤波は橋本と連絡を取った。藤波が橋本と直接会おうとしたのは、橋本が長州のことを嫌っていたことを充分にわかっており、藤波の尊敬する徳川家康にちなんで、押しでダメなら引いてみろ、長州の強気な態度では、橋本はますます打ち解けようとしない、柔軟な対応で橋本を口説き落とそうと考えていたのかもしれない。橋本は新日本への不信感、長州への不満が募って人間不信の陥りなかなか電話を取ろうとしなかった。それでも藤波が何度も橋本に連絡したことで、やっと橋本がファミレスで藤波と会ったが、誰にも会いたくないということで、ファミレスで待ち合わせしたのは午前1時だった。藤波はUWFがUターンした際に、誰もが対戦を嫌がった前田日明戦を一身に引き受け、何が何でもやり通した経験談を話して、小川との再戦を促す。話を終えた頃には夜明けの6時となって、返事は保留となったが、2度目に会談でやっと橋本が前向きとなって、小川との再戦を決意する。これでフロントも選手会もvsUFOも猪木や長州の思惑通りになったが、藤波が橋本を手なずけてしまったことで、橋本vs小川の主導権は長州ではなく、猪木と藤波に握られてしまった。, 10月11日東京ドーム大会で橋本vs小川の第4戦が小川の保持するNWA世界ヘビー級王座をかけて実現となったが、ローキックの連打を浴びせた小川が橋本にSTOを何度も決め、ダウンする橋本を蹴りつける。それでも立ち上がった橋本は小川の脛にローキックを浴びせ怯ませたかに見えたが、小川が再びSTOを炸裂させるとバックドロップで投げ、再びSTO、払い腰、STOで橋本を追い詰める。橋本は一旦場外へエスケープすると再びリングに上がるが、小川はミドルキック、払い腰、STOを連発する。橋本はダウンしてなお抵抗して起き上がるが、小川はナックルを浴びせて橋本はダウン、それでも立ち上がる橋本を小川が殴りつけてダウンさせるも、橋本は必死で立ち上がる。小川は橋本の頭部を何度もキックを浴びせて橋本はダウンするも、ここで立会人の猪木が乱入して小川を殴りつけて試合をストップさせ、試合が小川が勝利となり、完敗を喫した橋本は完全の追い詰められた状況となっていった。, (参考資料 宝島社「証言1・4 橋本vs小川」金沢克彦「子殺し」ベースボールマガジン社Vol.16「引退の余波」), アントニオ猪木・長州力・藤波辰爾・初代タイガーマスク・坂口征二・小川直也・橋本真也, GHCダブル前哨戦も金剛が完勝!原田がGHCジュニア王座奪取!杉浦軍最高顧問に蝶野正洋登場!, 桃&AZMがタッグリーグ優勝!第10回GODDESS OF STARDOM~タッグリーグ戦新木場、大阪大会公式戦結果, N-1 VICTORY 2019 ~NOAH NUMBER ONE PRO-WRESTLING LEAGUE~, POWER STRUGGLE ~SUPER Jr. TAG LEAGUE 2019~, PRO WRESTLING NOAH 20th ANNIVERSARY NOAH the CHRONICLE vol.2, PRO WRESTLING NOAH 20th ANNIVERSARY NOAH the CHRONICLE vol.3, Road to POWER STRUGGLE ~SUPER Jr. TAG LEAGUE 2019~, WORLD TAG LEAGUE 2020&BEST OF THE SUPER Jr.27. 12月の選抜団体では3位に終わった。 12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキを出足払で破り3位となった。また、団体戦では優勝を果たした[6]。, 1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフを払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで、一躍マスコミから斉藤仁、正木嘉美に次ぐ重量級第三の男として注目された[7]。 ↑メインは小川vsジェラルド ゴルドー、小川がチョークスリーパーで勝利。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 大阪万博1970(昭和45)年生まれの男のロマン。主に70~90年代カルチャーについて記憶と共に無差別に書きなぐります。, 【お知らせ】YouTube番組#3 非ヲタ・リアタイ世代が語る”宇宙戦艦ヤマト”. ... 【YouTube番組】#20 番組初のリアルツーショット!超一流ホテルに泊まってみた, 「少年隊」✖️「筒美京平」〜80年代アイドル⑫ 1985-1987 初期シングル筒美Worksは傑作揃い. TV中継放送直後の感想 元柔道オリンピック メダリスト 小川直也のプロレスデビュー戦、橋本真也に裸締めで勝利。 第1章 猪木挙式からクーデターへの胎動 この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1.4事変」として、長く記憶に残る事件となりました。, いまだに検証本、謎解き本が多く出版されるこの”事件”。 ↑メインは小川vsフライ(小川の勝利)。新日プロは協力を要請されますが、参戦したのはフライとジョンストンという、外様ガイジンの2人だけでした。, 続く年末のU.F.O.旗揚げ第二戦を前に、猪木は今度は「新日は藤田を活かしていない」と批判。なんとか新日との抗争を盛り上げようとしますが、坂口と長州の新日プロ側はさらに態度を硬化します。, 新日は猪木シンパの永島取締役、U.F.O.は佐山代表が矢面に立ち、水面下で対抗戦実現に向けての交渉を続けていました。, ●1998.10.30広島サンプラザホール 99年第一弾シリーズのカード発表 帰国直後に出場した選抜団体では愛知県警の秀川豊に大外返で一本負けを喫するが、チームは3位となった[9]。 全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。 明治大学 経営学部経営学科卒業。 筑波大学 大学院人間総合科学研究科コーチング学専攻博士前期課程修了。 ↑シリーズ最終戦、2.14日本武道館のメインは1.4ドーム武藤‐ノートンの勝者vsトーナメント優勝者。トーナメント出場メンバーは橋本、健介、山崎、越中、天山、小島、中西、永田)と発表。 ↑小川、遠征中の合同練習中に長州現場監督と衝突(怪我を理由に練習をセーブする小川に長州が「やる気がないならやめてしまえ!」と一喝)。かつての元横綱北尾光司の際も同様の衝突があり、その時は北尾の怠け癖が出たか、という印象でしたが、真面目そうに見える小川の場合はいささか謎な衝突でした。, ↑ここで注目なのが、小川が衝突した当時の現場監督である長州と、その直後にオーナーである猪木が相次いで現役引退した、という点です。, さらにはこの頃、引退後も現場監督として現場の統制を強化する長州と、選手会長 橋本の衝突が表面化します。反体制nWoの武藤、蝶野、反選手会勢は免除された「合同練習」に強制参加させられた橋本が不満を募らせ、ついには長州に「健介ばかりエコヒイキするな」と発言、橋本は「若い衆はみんな俺についてくる」とまで言い放ち、長州を激怒させる、という出来事がありました。, ●1998.6.5日本武道館  恒例の成田会見で猪木が新日批判。フライ、カシン、藤田の引き抜きを示唆 ◆第3部 クーデターを受けた側、猪木らの思惑 をご紹介します! 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する全日本大学柔道体重別選手権大会で優勝したが、学生優勝大会ではベスト8で敗れた。 10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。 7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた[4]。 6月の学生優勝大会では東海大学に敗れて2位に終わった。 正しく理解するには、この一戦の4年前まで遡る必要があります。, ●1997.1 馳浩が新日プロを離脱、ライバル団体の全日プロへ移籍 さらに全日本学生に出場して、決勝では78 kg級世界チャンピオンである筑波大学の岡田弘隆がケガで棄権したため、不戦勝で2年ぶり2度目の優勝を果たした。 小川 直也(おがわ なおや、1968年 3月31日 - )は、日本の柔道家、総合格闘家、平成期のプロレスラー。. コンテンツ別のアクセス数を見ても、「昭和のプロレスネタ」はいまなお人気がある(あった)んだなぁ、と実感します。 7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95 kg超級と無差別両方の代表となった[11]。 ↑橋本のマッチメーク批判に激怒した長州の意向と思われます。, ●1998.12.30大阪城ホール スペシャル2, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=小川直也&oldid=79402189, バルセロナオリンピックでは銀メダルに終わったことで、表彰台では終始俯き加減な態度だったために、マスコミや世間から激しいバッシングを受けたことがある, 柔道家時代は寡黙で口数の少ない印象で知られた。プロレスラーとなってからは積極的なパフォーマンスでイメージ・チェンジに成功したが、普段は大変温厚で「クソ真面目」と言われるほどであり、小川と同様に柔道家から格闘家に転向した吉田秀彦も「派手なパフォーマンスとかギャグとか、あんなに話せる人だとは思わなかった」と柔道家時代とのギャップに驚いた旨を語っている。, 前述の通り、JRA時代は競馬場の警備担当として開催中の場内の巡回を主な業務としていたが、, また出身地ではないが、現在居住している茅ヶ崎市を愛しており、2006年4月には市内に小川道場を開設したのを始め、市主催の, 2008年9月28日には石井慧が北京オリンピックで獲得した金メダルを小川道場に寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した. 坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年 2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本のプロレスラー。 柔道家。 福岡県 久留米市出身。 世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口 … 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定 (3-0) ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った[8]。

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