こうすることで原住民を自分たちにしたがわせるのです。 その後、フィリピンが真の独立を果たすのは太平洋戦争後まで待たなければなりません。, アメリカの統治下となったフィリピンでは、英語が普及。 自然遺産保護のために、入れる人数は限られています。 世界一周の任務は彼の部下が引き継ぎました。, ラプ=ラプ王は堂々とした戦いで征服者に立ちむかい、かつ勝利した原住民として今なおフィリピンの人々に愛され、東南アジア史に大きな光を放っています。 米西戦争でフィリピンの独立を約束していたアメリカは、戦争終了後に約束を反故にして植民地にした 2. そして歴史的に見ても、ふしぎな国、フィリピン。 フィリピンはふたたび戦禍にみまわれます。 アメリカ植民地時代 当時は、フィリピン国内にて独立を目指し運動を起こす人がたくさんいたんです。アメリカはそこに目をつけ、フィリピンに独立の支援を約束し、見返りに戦争の協力をしてくれるように要請するんですね。 このうちの一つが、ついに彼を失脚させます。, 40、50代以上の方では、まだ覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。 ともあれ様々な形によってフィリピンは発展し、堂々たるアジアの一員、現在では有望な発展途上国です。 彼は反マルコスでありながら非暴力主義をかかげ、その人柄と政策から国民に大人気の政治家でした。 しかしこの美しい街が戦争で破壊されないよう、どうかお願いします」司教は約束を守りました。 日本の影響下に置いたままではありましたが、日本はフィリピン統治において、フィリピンの人々の心をやわらげるために「独立」を承認したのです。 1972年、フィリピン全土に戒厳令が敷かれました。 もう一つ、フィリピンを経由してヨーロッパへむかった侍の一団がいます。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 03:57 UTC 版), 9月15日にはブラカン州マロロスで革命議会を開催した。しかしキューバ、プエルトリコを電撃的に攻略されたスペインは、1898年12月10日にアメリカとパリ講和条約を締結する。スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約2000万ドルで譲渡。アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフィリピン国民は一斉に激しく抗議。, アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発する。翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にのぼる[37]。, 米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般のフィリピン人の死亡者を出した[38]末にゲリラ化した革命軍の制圧を続け、1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進んだ。, また、日露戦争において日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた時期の1905年7月29日、タフトは来日し、日本の内閣総理大臣桂太郎との会談のなかで、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[39]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。, 1907年にはフィリピン組織法の下でフィリピン議会が選出された。また、米軍は、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定(Carpenter-Kiram Agreement)を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。, 1916年に米国議会でジョーンズ法(フィリピン自治法)を可決。同法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。こうして米国は、経済的には米比二国間の相互関税免除を旨とした自由貿易体制を確立し、サトウキビとマニラ麻を中心としたフィリピンにおける輸出作物モノカルチャー化が進み、マニラ麻栽培のためにダバオ周辺には日本人移民が導入された。また、公教育の拡充を通して英語の普及が進んだ。, 1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が議会で可決、10年後のフィリピン独立を承認。1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。ケソン政権下ではアメリカ軍のダグラス・マッカーサー元参謀総長によってフィリピン軍が創設されたが、機能するには程遠かったために、1938年2月にケソンは日本に対してフィリピンの中立化を布告した[40]。, 一方、親米的なコモンウェルス成立の影で、合衆国統治下でモノカルチャー化が進んだため、1920年代から1930年代にかけて窮乏化した小作農や都市労働者達によって労働運動の組織化が進められ、フィリピン全国農民組合や労働者総同盟などの労働組合が作られた他、1929年にはフィリピン社会党、1930年にはフィリピン共産党が結成され、両党は人民戦線戦術の下で1938年に合併してフィリピン共産党 (PKP)が成立した。, フィリピンの歴史のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 『マイノリティと国民国家-フィリピンのムスリム』イスラームを知る9、川島緑(2012)、P22-23、東京、, Archaeologists unearth 67,000-year-old human bone in Philippines, The Philippines - The Philippines in earlier times - The First Inhabitants 40,000 years ago, http://www.oocities.com/Athens/Cyprus/8446/tara.html, All text is available under the terms of the, 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。. 大自然を堪能(たんのう)しつつ、史跡をおとずれるという旅も、おもしろいかもしれませんよ?, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, フィリピン共和国。アジアの数ある国々の中でも、実は非常にふしぎな国です。アジアで唯一のキリスト教国。暗闇につつまれている古代フィリピン史。航海士マゼランと戦って勝利した王様の存在……数々の国の利害に振り回されながらも独立を勝ち取り、今ではFTA協定により日本とも強いパートナーシップで結ばれています。フィリピンって、青い海と陽気でおおらかな国民性……というイメージだけと思うなかれ。ふしぎなフィリピンの今昔。あなたものぞいてみませんか?. フィリピンの所得格差は非常に激しいことでも有名です。 フィリピンは激怒、兵士がアメリカ兵に射殺されたことで米比戦争が勃発 3. 1942年にフィリピンは陥落。 この時点で勝負はつきました。 頭を撃たれて射殺、即死でした。, この時、フィリピン語で「撃て」と言った兵士の声を、アキノ氏の願いによって撮影していた日本のカメラがとらえていました。 〈米西戦争〉の結果はスペインのボロ負け。 独立を賭けた〈米比戦争〉です。 マゼランは、最初にたどり着いたセブ島でキリスト教の布教活動を開始します。 彼を「アメリカで手術を受けさせる」という名目で国外追放します。 ドゥテルテ大統領は大統領になる以前、ダバオ市の市長をしていました。 「世界一美しい島」とも呼ばれる〈パワラン島〉は、フィリピンの「最後の秘境」とも呼ばれる神秘の島。 : History Section 〈FTA〉締結により、両国は経済的に急速に親しくなります。 : Asia & Japan Section この問題を受けて定められたものの一つが〈サラゴサ条約〉。 必ず恩返しをしたい」と、2016年10月の安倍首相との会談で述べてます。, これから日本とフィリピンがどのような関係を築いていくのか、ちょっと怖いような……いや、楽しみにしていきましょう!, さて、以上古代から現代まで、フィリピンの歴史を全速力でかけぬけてみました。 東西に線を引いて、スペインとポルトガルの勢力バランスを定めました。, つまり世界を真っ二つに分けて、スペインとポルトガルが山分けするというもの。 〈FTA〉〈EPA〉には、人の移動の自由化も盛りこまれています。 レッドデータブックに掲載されている、絶滅危惧種なども多くすむ非常に貴重な地区です。 マゼランの最期については諸説あります。 日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。 アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。 フィリピンワシ、フィリピンオウムなどは絶滅寸前の鳥類。 これが、フィリピンの人々に今も英語が浸透している理由です。, 20世紀初頭。 後述するイスラムの部族長ラプ=ラプによるマクタン島の戦いの舞台となった。, フィリピンに到達した初のスペイン人は1521年のマゼラン率いるスペイン船団である。マゼランはフィリピンにたどりつくと、鎧と槍、火縄銃、大砲などの武器の威力を背景に部族長たちに対してスペイン王への服属および朝貢とキリスト教に改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗を要求。部族長を次々と服従させていった。しかしイスラムの部族長ラプ=ラプはこれを拒絶した。マゼランは激怒し、1521年4月27日、ラプ=ラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣した。ラプ=ラプ軍は甲冑で身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害した。リーダーを失ったマゼランの配下たちは退却していった(マクタン島の戦い)[21]。, スペインは1529年にフィリピンの領有をサラゴサ条約をもってポルトガルに認めさせた。, 1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名した(「フィリピン」の国名の由来)。, 1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領、植民基地を作った。セブ島はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領の一部となる。レガスピはこの帰路にフィリピンからメキシコに向かう航路を発見し(当時は帆船なので来た航路をそのまま引き返すことができなかった)、メキシコとフィリピンの間でガレオン貿易を始めた[3]:36。ただしポルトガルやフィリピン原住民に最初の拠点セブを追われ、本格的な支配を開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と1571年のマニラ市の設置からだった[18]:126。当時のマニラには日本人も20人ほど住んでいた[6]:39。征服されたフィリピン原住民は植民地時代の初期にはエンコミエンダ制の下でスペイン人の征服者によって分配され、分配された徴税権や労働徴発権と引き換えにスペイン人はフィリピン原住民に対してカトリックの布教を行うことを義務付けられたが、エンコミエンダ制は原住民組織への打撃が大きかったため、17世紀前半に廃止された[22]。, 広大なスペイン帝国の中で、フィリピン総督領はメキシコ市を首府とするヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となり、ヌエバ・エスパーニャ副王の下で総督を頭とする行政組織が体系化され、州(アルカルデ)、町(プエブロ)、村(バリオ、バランガイ)が行政区画として再編され、総督の権力を監視するためにアウディエンシアが置かれた。, スペインは当初、トルデシリャス条約に抵触せずに香料を産出する地を求めてフィリピンを征服したが、フィリピンでは期待された香料は発見されなかったため、交易中継地として扱われることになった[23]。1573年には初めて中国産品がメキシコにまで運ばれ、ガレオン貿易が始まった[23]。季節風を利用して年に一隻のガレオン船がマニラからアカプルコまで太平洋を横断したガレオン貿易により、アカプルコから山を超えたカリブ海岸のベラクルスを中継してヨーロッパにまでアジアの産物が送られた[23]。さらに、マニラからは1581年と1582年に南米ペルー副王領のカヤオにまでガレオン船が送られたが、ペルーとマニラの貿易は1631年に禁止された[24]。ガレオン貿易のスペイン側からの決済にはメキシコ銀が用いられた。, スペインのフアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサは1585年出版のシナ大王国誌(Historia de las cosas más notables, ritos y costumbres del gran reyno de la China)で当時のフィリピンについても言及しており、それによると中国からフィリピンに絹や陶磁器などが非常に安くもたらされ、フィリピンから中国へは金製品やスペイン銀貨(英語版)などが支払われていた[25]。また、中国の張燮は1617年の東西洋考の中で「フィリピンからの品にフィリピン産のものは何も無く、夷人の銀貨ばかりである」と記している[25]。, スペイン入植後、浸透した貨幣経済によって原住民はたちまち居住地を借金の代わりに取り上げられ、スペインからの入植者も増えた。1578年には近隣の有力なイスラム国だったブルネイがスペインに破れたことでイスラム勢力の力が弱まり、1587年にマニラ近郊で首長が反乱を計画したものの、翌年発覚して数名が絞首刑後晒し首となっている(トンドの謀議(英語版))[3]:42,61。当時スペインで布教していたカトリック教会は、スペイン本国からの仕送りが少なく、ガレオン貿易の収益を重要な資金源としていたため、貨幣経済の浸透を止めることは無かった。スペインは荒地の開拓を積極的に進めたが、その労働力をフィリピン原住民に頼り、結果としてスペインによる土地支配が進んでいくことになった。また、信者が遺言で土地を教会に寄進することもあり、スペイン占領末期には全耕作地の7%ほどを占めるようになった<[3]:49。, 1591年豊臣秀吉は、長崎で貿易を営む原田喜右衛門の部下である原田孫七郎を使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスへ遣わした。, 1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれ、日本人がスペイン商人を相手とする通商が発展していった。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町が作られた。1570年には20人ほどだった日本人居住者も、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。大名の高山右近も日本追放によってマニラを訪れフィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している[6]:39。しかし1633年から順次施行された日本の鎖国令によって、これらの都市は衰えた。この後、サルセド総督統治時代[26]:8のフィリピンを日本の川淵久左衛門が訪れており、1671年の口述筆記『呂宋覚書』として残されている[6]:241。, ガレオン貿易の進展に伴って中国人や日本人が移住し、また、黒人がヌエバ・エスパーニャから連行され、マニラ城外に居住区を築いた[27]。特に中国人はガレオン貿易とフィリピン植民地経営に当たって決定的に重要な役割を果たした。1637年には中国人の人口は約2万人に達し[28]、17世紀から18世紀にかけてフィリピン総督による弾圧もあったものの、中国人は現地人女性と通婚してメスティーソ(混血)と呼ばれる社会階層を築きあげ、フィリピン社会に同化した。18世紀半ばの三度に及ぶ中国人追放令発令後、中国系メスティーソは地方の商業に進出したが[29]、19世紀のマニラ開港後は総督府の中国人移民奨励の影響もあって新規に移民した中国人商人が在来の中国系メスティーソに代わった[30]。, フィリピンには世俗教会よりも修道会の進出が進んだが、修道会もガレオン貿易に積極的に参加し、フィリピン植民地経済を支えた[31]。しかし、全体として高温多湿の過酷な気候条件と地理的な遠隔さ、経済的な魅力の不足から、スペインからフィリピンへの入植は進まなかった[32]。, スペイン人はフィリピン植民地化の過程で、フィリピン諸島全土を植民地化できた訳ではなかった。特に南部のホロ島やミンダナオ島のムスリムはスペイン人に対して頑強に抵抗し、300年以上に渡ってモロ戦争(英語版)と呼ばれるスペインとイスラーム勢力との間の抗争が続けられた。また、スペイン支配地域でもカトリック化した原住民の反乱が相次いだ。, 17世紀に入ると、政治的にスペインと対立し、東アジアへの進出が盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃が1610年、1660年と断続的に行われた。ヌエバ・エスパーニャ副王政府はこうしたオランダによるフィリピン攻撃からの防衛費をも負担した[33]。1603年には、マニラで最初の華人反乱が起きている。1621年から1621年にかけてBankaw Revoltが起こった。, 18世紀に入ると、七年戦争の最中の1762年にそれまでフィリピンとの密輸を続けていたイギリス東インド会社によってマニラが占領された。イギリス人は1764年にフィリピンから撤退したが、この事件はスペインによるフィリピン経営のあり方を再考させる一つのきっかけとなり、カルロス3世のボルボーン改革によってフィリピンにもタバコの強制栽培、専売制度の確立(1782)や王立フィリピン会社の設立(1785)など、プランテーション農業を基盤とした開発型植民地への転換を目指した政策が導入された。, スペインのフィリピン経営における商品作物の栽培や鉱山開発は失敗に終わったが[34]、イギリス海賊の跳梁やメキシコ独立戦争の影響のため1815年にガレオン貿易が廃止され、19世紀初めにフィリピンは重商主義的植民地支配から自由主義的植民地支配に移行した[35]。, 1834年にマニラが正式に開港されると、自由主義の下で輸出向けの商品作物の栽培が進み、マニラ麻や砂糖、タバコなどがアメリカ合衆国とイギリスの市場に向けて生産される一方で、商品作物栽培のための土地所有の集中を招き、アシエンダと呼ばれる大土地所有制度が確立されて農民の小作農化が進んだ。, スペインとイスラーム勢力の間でモロ戦争が継続される中、ホロに都を置いたスールー王国は19世紀に入るとスペイン当局やマカオのポルトガル商人、シンガポールとの交易で栄え、1840年代にはアメリカ合衆国、イギリス、フランスと通商条約を結んだ[36]。スペインはスールー王国に対し、1848年から断続的に攻撃をしかけ、1876年のホロ攻略後、1878年に講和を結び、以後はミンダナオ島の攻略に取り掛かった。スペインは1880年代にはミンダナオ島のブアヤン王国(英語版)との戦争を激化させたが、植民地時代の終焉までスペインがミンダナオ島を完全に支配することはできなかった。, 貿易の自由化に伴うアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入した。19世紀末になると、フィリピンにおける有産階級が成長したことや、世界各地を結ぶ航路が整備されたことなどを背景として、フィリピンからスペインへ留学する層が形成されることになった。こうした経験を通じてフィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していった。, 運動は当初フィリピン人の神父によって担われたが、1872年1月に勃発したカビテ暴動をきっかけに、総督によって進歩的なフィリピン人の神父や知識人が弾圧されたことは、スペイン当局のフィリピン・ナショナリズムへの弾圧を強化する事態を招いた。続いて1882年にはマルセロ・ヒラリオ・デル・ピラールによってタガログ語の日刊紙『タガログ毎日』が創刊され、フィリピン本土とスペインに留学したフィリピン人留学生によってプロパガンダ運動と呼ばれるナショナリズム運動が開始された。とりわけ、ホセ・リサールがスペインで発表した『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな,1887)は植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、民族運動に影響を与えた。1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社「団結」が結成された。1892年にはホセ・リサールがフィリピンに帰国して「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成するが、結成間もなくスペインに対する反逆罪で逮捕されるなど弾圧も強化されていった。, 1892年にホセ・リサール逮捕を機に、アンドレス・ボニファシオらによって秘密結社カティプナンが結成された。本国政府に対して急進的な姿勢をとるカティプナンは1896年に武力蜂起を決行した。しかし、スペイン政府は同年ホセ・リサールを処刑し、本国から軍隊を派遣して革命鎮圧を図った。一方、革命勢力側はボニファシオとエミリオ・アギナルドの間の主導権争いが発生するなど、革命運動の統一を図ることができなかった。結局、実権を握ったアギナルドがボニファシオを処刑してスペインとの戦闘に臨んだが、革命勢力、スペインともに疲弊する中で1897年12月にビアックナバト和約が成立し、アギナルドは香港へ亡命する。しかし、ボニファシオの処刑にみられるように革命勢力は一枚岩ではなかったため、和約の成立後も各地で反スペイン闘争は継続された。, 1898年にハバナで起きた米戦艦メイン号の謎の爆沈事件をきっかけに、アメリカ合衆国が第二次キューバ独立戦争に介入、4月に米西戦争が勃発する。アメリカはフィリピンの独立に全面協力することを条件に、香港へ亡命していたアギナルドに米西戦争に協力しフィリピン上陸の案内をするよう要請。アギナルドはこれを受け入れ、5月にアメリカ艦隊と共にフィリピンに帰国し独立運動を再開、同1898年6月12日に現カウィットの自宅にてフィリピンの独立を宣言した(現在も6月12日は独立記念日とされている)。同年8月13日、米軍とともにマニラにあったスペイン総督府を陥落させスペインとの戦闘を終結。, 9月15日にはブラカン州マロロスで革命議会を開催した。しかしキューバ、プエルトリコを電撃的に攻略されたスペインは、1898年12月10日にアメリカとパリ講和条約を締結する。スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約2000万ドルで譲渡。アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフィリピン国民は一斉に激しく抗議。, アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発する。翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にのぼる[37]。, 米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般のフィリピン人の死亡者を出した[38]末にゲリラ化した革命軍の制圧を続け、1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進んだ。, また、日露戦争において日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた時期の1905年7月29日、タフトは来日し、日本の内閣総理大臣桂太郎との会談のなかで、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[39]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。, 1907年にはフィリピン組織法の下でフィリピン議会が選出された。また、米軍は、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定(Carpenter-Kiram Agreement)を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。, 1916年に米国議会でジョーンズ法(フィリピン自治法)を可決。同法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。こうして米国は、経済的には米比二国間の相互関税免除を旨とした自由貿易体制を確立し、サトウキビとマニラ麻を中心としたフィリピンにおける輸出作物モノカルチャー化が進み、マニラ麻栽培のためにダバオ周辺には日本人移民が導入された。また、公教育の拡充を通して英語の普及が進んだ。, 1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が議会で可決、10年後のフィリピン独立を承認。1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。ケソン政権下ではアメリカ軍のダグラス・マッカーサー元参謀総長によってフィリピン軍が創設されたが、機能するには程遠かったために、1938年2月にケソンは日本に対してフィリピンの中立化を布告した[40]。, 一方、親米的なコモンウェルス成立の影で、合衆国統治下でモノカルチャー化が進んだため、1920年代から1930年代にかけて窮乏化した小作農や都市労働者達によって労働運動の組織化が進められ、フィリピン全国農民組合や労働者総同盟などの労働組合が作られた他、1929年にはフィリピン社会党、1930年にはフィリピン共産党が結成され、両党は人民戦線戦術の下で1938年に合併してフィリピン共産党 (PKP)が成立した。, 1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が勃発すると、南方作戦の一環として第14軍がフィリピンに上陸し、1942年1月2日に日本軍はマニラを占領した。その後、4月にバターン半島、5月にコレヒドール島の米比軍を降伏させ、翌5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。, 既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。日本は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが[41]、政治的決定の多くは日本に委ねられていた。, アメリカ軍降伏後、合衆国はマッカーサーに直属するフィリピン人のユサフェ・ゲリラを組織して日本への抵抗を続けた。また、1942年3月には農民運動を母胎にルイス・タルクらによってフクバラハップ(フク団、抗日人民軍、のち人民解放軍)が結成され、中国の人民解放軍を範としたゲリラ部隊を組織して、農村に支持を広げつつ抗日運動を展開した。ユサフェ・ゲリラは地主支配の打倒を掲げるフクバラハップを敵視し、双方の間で戦闘が繰り広げられた。, 日本の軍政は抗日ゲリラ討伐のために隣組制度(DANAS)を組織し、1942年末には既存の政治組織を解散させて新たに新生フィリピン奉仕団(KALIBAPI)が再編された。しかし、ゲリラ運動と経済政策の失敗に起因する飢餓が起こり[42]、物資調達のための軍票乱発に起因するインフレーションは食糧不足を加速させ、食糧不足に伴ってフィリピン人の窮乏化と日本からの離反も進んだ[43]。, バンサモロでは、日本軍政当局はスペイン・アメリカ占領政府の研究資料を引き継ぎ、ムスリム・非キリスト教徒「モロ」をキリスト教徒よりも下に見る態度を引き継いだ。また、バンサモロにおけるアメリカ軍の支援を受けた抗日ゲリラを「不逞モロ」と呼び、その軍事的制圧を目指した[44]。, 日本は民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認めた。日本はラウレル政権と同盟条約を締結し、形式面では日本の軍政期が終わった。ラウレル大統領は11月に東京で開催された大東亜会議に出席している。, しかし、ラウレル政権はフィリピン民衆の広範な支持を得ることができなかった。さらに、ラウレル政権は戦前からの地主支配の継続を認めたためにフィリピン親日勢力の離反を招き[45]、ラウレル政権側も日本との協力を拒否する姿勢をとったため[46]、日本は1944年12月にベニグノ・ラモスとアルテミオ・リカルテをはじめとするフィリピン独立運動家達によって設立されたフィリピン愛国連盟(マカピリ)を新たな協力者とした。, 1944年10月20日にアメリカ軍がレイテ島に上陸し、続くレイテ沖海戦でも日本軍を破った。 1945年1月にはマニラ大虐殺が発生。1945年2月3日からはマニラ市街戦が開始され、3月3日に、米軍はマニラを制圧する。さらにルソン島北部に敗走する日本軍を追いつめ、9月3日に日本軍は降伏した。この過程で、多くのフィリピン市民が巻き込まれて犠牲になった。日本軍と共に戦ったマカピリは戦闘によって壊滅した。第二次世界大戦によるフィリピン人の犠牲者は110万人に達した[47]。, 戦時中のレイテ作戦でアメリカ軍と共にフィリピン帰還を果たしたフィリピン・コモンウェルスのセルヒオ・オスメニャ大統領に権力が戻り、米自治領政府(コモンウェルス)が復活した。また、抗日運動で活躍したフクバラハップは、マニラ奪回後には共産党勢力を警戒したダグラス・マッカーサーの意図によって武装解除を余儀なくされた。第二次世界大戦後も徹底的な迫害が続けられ、親米政権が維持されることになった。, 第二次世界大戦後、1946年4月の選挙で地主を母胎にした国民党、労働運動とフクバラハップを母胎にした民主同盟との選挙戦を制した対日協力者を母胎とする保守派の民主党が勝利し、マヌエル・ロハスが新たに大統領に選出された。同年7月4日、フィリピンは主権を獲得し、第三共和国が成立した。, 同1946年にはフィリピン航空が民間としてアジアで初めて太平洋横断する運航を開始。, しかし、第三共和国は経済的に合衆国に依存する構造は変わらず、軍事的にも1947年に締結された比米軍事基地協定によって冷戦構造の中で合衆国の反共主義の前線基地として位置づけられ、実質的な独立を達成できなかった[48]。, また、戦後共和国政府は徹底してフクバラハップを敵対視し、1948年3月にはロハス政権によってフクバラハップと全国農民同盟は非合法化され、ルソン島では政府軍と地主の私兵とフクバラハップとの間で戦闘が繰り広げられた。ロハスの死後、政権を継いだエルピディオ・キリノ政権はフクバラハップとの和平交渉を行ったが、交渉は決裂した。フクバラハップは首都攻略を噂されるほどの大勢力となっていたが[49]、これに脅威を抱いた合衆国はフィリピン政府への軍事援助を強化し、ラモン・マグサイサイ国防相による討伐作戦によって1950年10月には共産ゲリラの司令塔だったフィリピン共産党 (PKP)が壊滅し、翌1951年にはフクバラハップそのものも実質的に壊滅に追い込まれた。, 1953年11月にフクバラハップ討伐の功績が評価されたことにより、国民党のマグサイサイが大統領に当選した。この年、ABS(現在のABS-CBN)がテレビ本放送を開始。, マグサイサイ政権はフクバラハップへの支持の源泉が大土地所有制にあることを見抜き、農地改革を推進したが、1955年に制定された農地改革法は抜け道の多い不徹底なものに留まり、1960年のセンサスでは1948年よりも小作農の数が増加した[50]。このため、1963年にディオスダド・マカパガル大統領も農地改革法を制定したが、この改革法も実効性に乏しく、却って農村部での階級対立を激化させる作用をもたらした[51]。, 1950年代から1960年代にかけてナショナリズムが盛り上がり、1966年から民族主義青年同盟(KM)によって文化大革命に影響を受けた第二次プロパガンダ運動が展開され、文化や教育のフィリピン化が目指された。, 1956年には日比賠償協定が調印され、日比国交が回復した。1957年にはマグサイサイ大統領が事故死。後継はカルロス・ガルシアがなった。, 1961年、ディオスダド・マカパガルが大統領に当選。独立記念日をそれまでの7月4日から6月12日に変更。, 1965年に国民党から大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、強権政治の下でフィリピンを統治した。1966年、ABS-CBNがカラーテレビの本放送を開始。, 1968年には毛沢東主義に基づくフィリピン共産党 (CPP) が再建され、翌1969年3月には軍事部門の新人民軍(通称NPA,New Peoples Army)を結成してゲリラ戦を開始し、南部でもムスリムが1970年にモロ民族解放戦線を結成し、ミンダナオ島で反乱を開始した。, 1969年に腐敗選挙で再選された[52]マルコスは両組織の反乱を理由に1972年に全土に戒厳令を敷き、新社会建設を掲げて議会の閉鎖、既存支配層の排除、軍隊が政府機能を掌握した。マルコス政権による農地改革は実効性を持ち、自作農が創設され、米の自給もある程度可能になる[53]などの成果もあり、外国資本の積極導入を柱とした経済政策により1970年代を通して年率6-7%のGNP成長を達成した[54]。, 1975年、マルコス訪中し、中国(中華人民共和国)と国交樹立。1976年にはソ連と国交樹立。モロ民族解放戦線と暫定和平協定(トリボリ協定(英語版))を締結。, 1979年、日本のアニメ「超電磁マシーン ボルテスV」がフィリピンで放送され、大人気となり最高視聴率が58%を記録した。当時テレビアニメといえばアメリカ作品しかなかったフィリピンでは、子供たちにとってボルテスVの登場は衝撃的な出来事であったといわれる。しかし民間団体などが、ボルテスVの武器を侍の刀の象徴とみなしたり、旧日本軍の賛美とみなす受け取り方や、本作を皮切りに日本企業が台頭してくる事を警戒して抗議、8月、マルコス大統領が放送禁止宣言をし、国営放送でのボルテスVは放送中止された。, マルコスとイメルダ・マルコス夫人をはじめとした取り巻きによる政治の私物化と腐敗政治が進み、対外債務の膨張が財政を逼迫させるなど徐々に政権は危機的な様相を帯びてきた[要出典]。1981年に戒厳令は解除されたが、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノがマニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺された。これは反体制派の怒りを増した。こうした国民の不満の爆発を受け、1986年2月の選挙をきっかけにエドゥサ革命が勃発し、マルコス夫妻はハワイに亡命、1989年にハワイで死去。, 新たに大統領に就任したコラソン・アキノは7度のクーデター未遂に見舞われ1989年には軍反乱事件が起き、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧した。, 1990年にルソン島中部でバギオ大地震が発生し、多数の死傷者が出た。1991年にはピナトゥボ火山が噴火し、この災害をきっかけにフィリピンからアメリカ軍は基地を撤収した。, 1992年に大統領に就任したフィデル・ラモスは新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の上昇を実現したが、他方でこの経済成長は雇用を拡大せず、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持された[55]。同年、米軍撤退完了。, 1995年には各地の軍事反乱が終息し、1996年モロ民族解放戦線と和平協定が締結(en:Peace process with the Bangsamoro in the Philippines)。1997年にはディオスダド・マカパガル死去。, 1998年、ジョセフ・エストラーダが大統領就任するが、2000年下院、エストラーダ大統領を弾劾。市民デモ(ピープルパワー)が活発になり、2001年 第二人民革命(en:EDSA Revolution of 2001)が起きる。, 2004年 グロリア・アロヨ、大統領選挙で当選。しかし、その後アロヨは選挙の不正を認め国民に謝罪。2005年にはスビク湾の婦女暴行事件で、駐留米兵4人逮捕。付加価値税の引き上げ。, 『マイノリティと国民国家-フィリピンのムスリム』イスラームを知る9、川島緑(2012)、P22-23、東京、, en:Peace process with the Bangsamoro in the Philippines, Archaeologists unearth 67,000-year-old human bone in Philippines, The Philippines - The Philippines in earlier times - The First Inhabitants 40,000 years ago, http://www.oocities.com/Athens/Cyprus/8446/tara.html. アメリカはフィリピン奪還作戦を実行。 ここにダイブするのは世界中のダイバーのあこがれ。 部族の中で家庭をはぐくみ、狩りや漁をして日々の暮らしをつなぎ。 我の名はアンジー。フィリピンという魔界にやってきてもう数年が経過するだろう。こう見えてまだ若い。と思ったら、先日ぎっくり腰で倒れました。. しかしそれは、文明のきゅうくつさを知らない生活だったに違いありません。 1.アメリカ植民地期フィリピン 主には植民地教育について考えてきました。植民地支配とは、人種・エスニシティによる差別が貫徹し、立法権よりも行政的な権力が優位な統治体制です。また、社会改革や発展が主要なイデオロギーです。 彼らは苦難のすえに〈遣欧少年使節団〉の少年らと同じく、ローマ法王謁見を果たします。 彼はスペイン王の命を受け、財源である香辛料を求めてついにフィリピン諸島に到達しました。 なぜ史料が残っていないのでしょう?フィリピンは非常に温暖な気候のため、木などに文字を記したとしても「史料は時とともに劣化してなくなってしまった」という説が主流。 1862年6月12日。 とりどりと色の魚や美しいサンゴ礁、にごりのない青い海…「最後の秘境」の名に恥じない、美しい海で, セント・ポール山の下、鍾乳洞(しょうにゅうどう)の中を流れる、8.2キロにも渡る地下河川。 ラプ=ラプ王は戦いの場所を、マクタン島の遠浅の海岸に設定。 これに対し、征服者はキリスト教を布教していきます。 日本の企業も多くフィリピンに展開しはじめています。 いずれにせよマゼラン軍は敗北、マゼラン本人はラプ=ラプ王とのこの決戦で命を落とします。 当時は冷戦まっただなか。 たしかに中国や日本の記録に、マカオやルソンの商人や漂流民の記録は出てきますが、肝心の「フィリピンという国」の正体はうかがい知ることができません。 彼女の政権で成立した人権を尊重した新憲法は大歓迎されます。 しかしこの〈第二共和国〉も、太平洋戦争終盤にアメリカ軍がフィリピンに再侵攻すると、〈第一共和国〉のときと同じく瓦解。 そのうちの一つ、フィリピン最古の教会〈サン・アグスチン教会〉は石造の重厚な造り。 実際に私の見たフィリピンの人々のミサ、とりわけ復活祭でのタガログ語の賛美歌は、楽しくリズミカルで、人生をエンジョイしている感じ。 マルコス大統領はその独裁体勢を、戦後フィリピンにおいて、20年間敷きました。 とても愉快でした。 その交易地、および中継地点としてフィリピンにも多くの日本人が足跡を残しました。 〈種子島鉄砲〉の到来、そしてフランシスコ・ザビエル来日以降、多くキリシタン大名が生まれ、キリスト教が日本で大ブーム。 マルコス政権の独裁統治20年、そしてそれに終止符を打った、ベニグノ・アキノ氏の暗殺。 よく作り、よく守ってきたと言いたくなります。, 青々とした稲がそよぎ、水のきらめきがあるその景色は、どこか日本の原風景にも似ています。 地下河川とは「洞窟の下を流れる河川」のことです。 Decolonization in Southeast and East Asia [The Tokyo Trial], May 21 (Tue.) 1943年〈フィリピン第二共和国〉の誕生です。 ここでは、ほんのわずかですが、フィリピンを訪れた歴史上の人物を紹介します。 しかし独立後も内戦、独裁政権、暗殺劇など苦難はたえませんでした。 ツアーは45分ほどですが、神秘的な体験をすることができます。 生息する1380種の野生動物のうち、341種がフィリピンの固有種。 というよりも「神様が全部なんとかしてくれる」という、良い意味での丸投げ精神。 堂々たるユネスコ登録の世界遺産です。 〈米西戦争〉の開始です。 1899~1902年、独立を宣言したフィリピンと介入したアメリカの戦争。アメリカはフィリピンの独立を抑え、植民地支配を開始する。フィリピンでの反米闘争はその後も続いた。 とにかく考古学的史料が非常に少なく、専門家たちを悩ませ続けています。 殉教か、棄教か……ここで思わぬ動きをしたのが、キリシタン大名として全国に名高かった高山右近。 その中でたくましく残った4つの教会は〈フィリピンのバロック様式教会群〉として世界遺産に登録されています。 ルソン島に広がる、世界最大規模の〈棚田〉です。 中野聡「民主主義と他者認識--アメリカのフィリピン政治論」2000年、34thアメリカ学会年次報告資料, 柴田建「ゲーティッドコミュニティとスラム」『家とまちなみ』No.63,2011,3, 住宅生産振興財団, 荒哲「リカルテ将軍の政治思想について」アジア研究vol54,No.1,2008年1月, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリピンの歴史&oldid=80035588, 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。. Asia Pacific War I [Military “Comfort Women”], Transnational Markets and Civil Society “Globalism and the Early 20th Century: US Empire and its relations with Asia/Pacific”, Wars, Colonialism and Nation-States in the East and Southeast Asian Context, アジア地域史II/Asian History II: 地域から地域を捉える―相関地域研究の挑戦, 挿絵”Conquering Hero,” McCoy and Roces, 98[原典 PFP, 21 March 1925, 1], 1. 衝撃的な、ベニグノ・アキノ・ジュニア氏の暗殺で、フィリピン史は転回します。 ユネスコに登録されている、フィリピンの世界遺産は6つ。 キリシタン大名と修道士の企画により、結成されたのが〈天正遣欧少年使節団〉。 不確かな足元、重い金属製の鎧による動きの鈍り。 ©Copyright2020 どすこいフィリワールド.All Rights Reserved. このときキューバはスペイン領でした。 独裁制は強い権力を駆使して問答無用で重要な政策をおしすすめられるため、ある一面では国家の発展に有効な政体であるという側面があるのは事実です。 タラップを下りきった10秒後、アキノ氏が倒れます。 作中では、フィリピンの修道院の情景が非常に真に迫った描写で描かれています。, 「スペインの植民地になったんでしょ?でもなんでフィリピンの人って英語ペラペラなの?」その答えは19世紀に起こった二つの戦争にあります。 鉄でまもられていない足を、銛(もり)で攻撃されて倒れるマゼラン軍。 フィリピンに行ったら、その足跡をたどるのもいいかもしれません。, キリシタン容認姿勢から一転、キリスト教の布教とキリシタンを取締りする方針を固めます。 従来のフィリピン教育研究の多くは,この学校普及を「秀れた植民地教育政策の業績」1)として紹介するか,またはアメリカが学校を通じてフィリピン人の価値観や文化嗜好をアメリカ礼讃の方向に操作した点をクローズ・アップしてきた2)。 東南アジアではじめて西洋人に立ちむかった勇者です。, キリスト教到来以前、フィリピンで信仰を集めていたのはイスラム教でした。 そしてここで命を落とすことになります。 また彼女の大統領就任中に、長く駐留を続けていたアメリカ軍の全面撤退にも成功しました。 キリスト教は征服者の道具として使われた節はありますが、現在ではその教えと信仰は人々の生活における強い支えとなっています。 フィリピン独立に全面賛成、援助まですると言っていたアメリカは、あっさりと裏切りました。 耕作がむずかしい土地、とくに傾斜地が多い場所によく見られるもので、日本にもありますよね。 2017.01.09 しかしアキノ氏は「国民のそばにいたい」と帰国を決行。 その後彼の守った〈ビガン歴史都市〉として世界遺産に登録され、現在も残っているのです。, 第二次世界大戦が集結。 「いいぞ大統領、これまでみんな言わなかったことをどんどん言ってくれている!痛快だ!もっとやれ!」ということのようです。 Postgraduate: Area Studies, 連絡先(E-mail):okada [at] ask.c.u-tokyo.ac.jp, Apr. そこに日本は多額の経済支援をしていました。 これをラプ=ラプ王は待っていました。 海水が足を洗う浅瀬で船をおりるマゼラン。 今でも、マニラの日比友好記念公園には彼の銅像がそびえています。, 日本の大名たちも、交易の開拓とキリシタン信仰のさらなる発展を願って、ヨーロッパに目をむけました。 独立運動家・エミリオ・アギナルドはアメリカに対し、フィリピン独立に全面協力という条件に、対スペイン共同戦線を敷きます。 非常に敬虔な信徒だった彼は地元の修道院に大歓迎されますが、過酷な船旅と老齢のため、到着からわずか40日後に病死します。 南蛮貿易の活発化によって、多くの日本人が海を越えていきます。 4/9 ガイダンス——「極端な時代」から何を学ぶのか、「長い20世紀」と「短い20世紀」. 悪いことばかりではありませんね。, スペインはじめ、西洋人がフィリピンに到来して以降、バリバリとキリスト教が入ってきます。 16世紀からちかしい中だった、日本とフィリピン。 フィリピンは1946年から1992年までアメリカの植民地であった。 1992年にはアメリカ軍基地はフィリピンから撤退している。 しかし長年にわたる植民地化でアメリカはフィリピンに大きな影響を及ぼした。 戦後日本は数々の援助をフィリピンに対して行ってきました。 海だけじゃありません、山岳部にもその魅力はあふれています。 ちょっと血なまぐさい歴史の話はおしまい。 「高橋」という苗字、そして階級が「大尉」であったことがわかっています。 経済面で発展をとげるフィリピン。 〈米比戦争〉のときにすでに、フィリピンの独立運動家を支援する日本人があらわれていました。 なんとこの自然遺産、中に入って船で探検できるツアーもあるんです! 中国の習近平国家主席との会談では、ガムをクチャクチャ、手はポケットというパフォーマンスをしたりもしました。 従来のフィリピン教育研究の多くは,この学校普及を「秀れた植民地教育政策の業績」1)として紹介するか,またはアメリカが学校を通じてフィリピン人の価値観や文化嗜好をアメリカ礼讃の方向に操作した点をクローズ・アップしてきた2)。 また、〈フィリピン第一共和国〉のときに大統領であったアギナルドも、このとき支援をしています。 ちょっとだけ、のぞいてみましょう。, 16世紀、ヨーロッパでは〈バロック様式〉が一大ムーブメント。 つまり、今も現役。 アキノ氏は記者に言います「必ず何かが起こるから、カメラを回しておいてくれ」それが最後の言葉でした。 2000万ドルというはした金で領有権を購入したアメリカは、こう言いました「フィリピンは合衆国の旗のもとにしたがうべき」――これにフィリピンの人々がしたがうわけがありません。, フィリピンをふたたび戦争が襲います。 一般に、植民地支配をされた経験から、フィリピンの日本への感情はあまりいいとは言えないと言われています。 その人の名は〈ラプ=ラプ王〉。 スペインの植民地から解放される日がやってきたのです。 どの国がどのように世界のどのあたりの土地を領土とすればいいのでしょう?秩序を決めなければなりません。 市街戦、虐殺、ゲリラ戦……フィリピンの島々のいたるところで民間人が殺害され、両国の兵士が犠牲になりました。 装飾過多な建築様式は「グロテスクでカッコ悪い」と当初言われていましたが、やがて絶対王政を敷く国々で受けいれられ、建物のみならず家具などにまで影響を与えます。 イスラム教を奉じる部族の長であった彼は、フィリピンではじめて西洋人に抵抗します。 取りしまりは大名たちとて例外ではありません。 大統領となっていたアギナルドは捕虜となり、アギナルドのもとで成立していたフィリピン第一共和国はこれによって滅びてしまいます。 また、当初は順調だった経済政策も、独裁政権が長引くにつれ、汚職が横行。 というのも、フィリピン国内は雇用が安定せず、低い収入しか得られません。 スペイン、アメリカ、日本…しかし今では堂々たる独立国として、アジアの一員です。 フィリピンにはカースト制度が … ただの〈棚田〉じゃありません。 Empires and Modern Empires, Basic References on the 20th Century History, June 11 (Tue.) 便宜上、キリスト教の洗礼を受けていた支倉常長らは帰国後、キリシタンとして幽閉、そして処刑されてしまいます。, その悲劇的な運命は遠藤周作の小説『侍』で、うかがい知ることができます。 まさしく、日本のキリシタンの栄光が頂点に達した瞬間でした。 そもそもなぜ、スペインははるばる1万キロも離れたフィリピンにまでやってきたのでしょう?当時は大航海時代。 また、彼の政敵などが多く暗殺されました。 しかしなんといっても、同じアジアの島国。 しかしそれは、次なる苦難のはじまりにすぎませんでした。 フィリピン=アメリカ戦争/フィリピン戦争. 千々石ミゲル、伊東マンショら、平均年齢13歳の少年武士たち。 波乱のフィリピンの現代史をのぞいてみましょう。 フィリピンのマーケティングでは、所得層の5段階をA~Eの5段階に分けることが、よく行われています。, SWSの統計によると、富裕層と言われるA・Bクラスは、フィリピンの全世帯のなかのわずか1%に過ぎません。A・Bクラスの1年間の世帯収入が185万7千ペソですから、日本円に換算するとおよそ420万円です。, 中間層に位置するのがCクラスで、全世帯の9%を占めています。世帯収入60万3千ペソは、およそ188万円です。, Dクラスは、貧しいながらもなんとか生活ができる世帯です。実に全世帯の60%を占めており、フィリピンのほとんどの世帯は、ここに属していることがわかります。世帯収入19万1千ペソは、およそ44万円です。, Eクラスは、いわゆる最貧困層です。世帯収入6万2千ペソは、およそ14万円です。月収にすれば1万円ちょっとです。さすがにこの収入では、食べていけるかどうかぎりぎりです。, フィリピンの物価が日本と比べて安いことはたしかですが、すべてが安いわけではありません。たとえば電気料は、フィリピンのほうが日本よりも高くなっています。, 物価が安ければ収入が低くても暮らしていけますが、それにも限度があります。日本人がフィリピンで、一人1万円ちょっとで衣食住のすべてをまかなえと言われたなら、おそらく無理でしょう。, まして、Eクラスの月収1万ちょっとは、一人で使える金額ではありません。家族全員がその金額で食べていくことになります。, フィリピンでの世帯の平均人数は5人ですが、貧困層の世帯になるほど人数が増える傾向にあります。貧困層の家庭では8人や10人を超えることも、珍しくありません。, こうしてデータを並べてみると、フィリピンにおける貧富の差がはっきりと見えてきます。, 富裕層と中間層をあわせても、全世帯の10%ほどです。残りの90%の世帯は、貧困層なのです。, では、ここで、entrepreneurに「100万ドル以上持っているフィリピン人は何人? スイスの銀行が試算」という記事が掲載されていましたので、こちらも翻訳して紹介しましょう。, 昨年暮れに発行されたクレディ・スイスのグローバル・ウエルス・データブック2016年度版報告書によると、100万ドル(4,970万ペソ)以上の資産を持つフィリピン人は、39,000人以下とのことです。, フィリピン人の成人人口は約6,000万のため、ミリオネアは0.06%しかいないことになります。, フィリピン人ミリオネアの割合は、近隣諸国や世界平均と比べても、とても少ない結果になっています。, アジア太平洋地域では、12億人のうち0.52%が、そして世界では48億人のうち0.68%がミリオネアです。, しかし、フィリピンはタイ(0.06%)やインドネシア(0.07%)など、ASEAN諸国と比べると同レベルの割合です。, フィリピンは急速な経済成長のおかげで、この6年間でミリオネア人口の割合が急激に増えました。2011年は18,000人、つまり総成人人口の0.03%しかいなかったミリオネアが、昨年は倍以上の38,838人に増えているのです。, しかし、ミリオネアの間にもさらに格差はあります。この約39,000人の百万長者のうち、1,000万ドル(11億5千万円)以上所有しているのは2,668人に過ぎず、1億ドル(115億円)以上となると193人しかいません。ビリオネア(10億ドル = 1,150億円以上)となるとその数は14に激減します。, 大多数のフィリピン人、つまり残りの87%は、金銭的・非金銭的な資産を含めても1万ドル以下の資産しか所有していないことになります。フィリピン人成人ひとりあたりの平均資産は $9,878(1,137,000円)ですが、これが中間値(中心的傾向を表すもう一つの指針)となるとさらに下がり、 $2,055(236,000円)になります。, この2つの数値に大きな開きがあるということは、不平等が蔓延していることのひとつのしるしとも言えます。, クレディ・スイスは、世帯の家計とその他の富の分配データから情報を収集して報告書をまとめています。報告書には、200か国以上のデータが含まれており、全ての収入レベルに及んでいます。, 参照元:http://www.entrepreneur.com.ph/news-and-events/how-many-filipinos-have-a-million-dollars-a-swiss-bank-tries-to-count-a1672-20170105?ref=home_featured_big, http://wetalkaboutbusiness.blogspot.com/2014/04/next-11-n-11-countries-introduction-to.html経済成長率だけを見れば、フィリピンはアジアでも抜群の成長率を誇っています。, 2000年代以降著しい経済発展を遂げているブラジル・ロシア・インド・中国の4ヶ国をBRICsと呼びますが、それらに次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在性があるとされる国をNEXT11と呼びます。, しかし、経済が成長しているにもかかわらず、フィリピンの場合、一般庶民の生活ぶりはちっとも向上していません。, 経済成長によって潤っているのは、わずか1%に過ぎない富裕層ばかりです。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなるのがフィリピンの現状です。, 貧富の差による不公平感は、entrepreneurの記事にもあったように、ここ数年でさらに加速しています。, なぜ、フィリピンではこのような貧富の差が生じているのでしょうか? 周辺諸国が経済的にフィリピンよりも発展し、貧富の差も縮まっているのに比べて、なぜフィリピンではちっとも貧富の差が解消されないのでしょうか?, http://www.ourknowledge.asia/blog-posts–articles/which-philippine-president-caused-the-downfall-of-the-philippines-economy, フィリピン経済はかつては「アジアの落ちこぼれ」ともいわれ、周辺諸国が経済的に発展していくなか、フィリピンだけが取り残されたように経済が停滞していました。, 経済成長はしているものの、現在も平均資産で比較すると、アジアの平均資産の21.3%に留まっており、依然として貧しさは際立っています。, しかし、フィリピンの経済は昔からずっと遅れをとっていたわけではありません。1960年代のフィリピンの1人当たり国民所得は、アジアで第何位だったと思いますか?, 今日のフィリピン経済からは信じられないかもしれませんが、アジアで第2位でした。日本に次ぐほどの強い経済力を、フィリピンはもっていたのです。, ところが、10年経つ頃には台湾と韓国に追い抜かれ、さらに10年経つとタイやマレーシアに抜かれ、1990年後半には中国にも抜かれてしまいました。, 2010年にはインドネシアにも抜かれ、現在に至ります。かつてはアジア期待の星と目されていた1960年代からは、想像もできない没落ぶりです。, ただし、1960年代も、今日とさほど変わらない貧富の差が存在していました。1人当たりの国民所得が高かったのは、少数の富裕層が莫大な収益を上げていたからです。, なぜ、当時から貧富の差が激しかったのかといえば、植民地時代の影響を受けていたからです。, http://philippinesreport.com/philippine-history/, フィリピンは1521年にマゼラン率いるスペイン艦隊がセブ島に上陸して以来、スペインの植民地でした。, フィリピンはスペインのアジア侵略の拠点となり、これより苦難の歴史を歩むことになります。, フィリピンの人々は激しい抵抗運動を繰り返しましたが、スペインの圧倒的な軍事力の前に為す術はありませんでした。, 急速に貨幣経済へと切り替わったことで、フィリピンの人々はなにもわからないまま借金を重ね、次々に土地と財産を没収されていきました。フィリピンの多くの人々は、事実上、スペイン人の奴隷となり、強制労働などで酷使されたのです。, 当時、フィリピンではたばこ・サトウキビ・マニラ麻などが主として生産されました。世界的に需要が拡大したため、それらの輸出作物は盛んに生産されるようになり、スペインを豊かな国へと変えていきました。, その際、フィリピンの人々をスペインにおとなしく従属するように広められたのがキリスト教のカトリックです。今でもフィリピンでは、国民の8割から9割がカトリック教徒です。, 輸出作物の大農場を所有していたのは、はじめの頃はカトリック教会や地方総督でした。輸出作物が盛んになるとともに、スペイン人入植者がこれに加わりました。, その結果、フィリピンの潤った大地はほとんどがカトリック教会・地方提督・スペイン人入植者・現地人支配層の持ち物となり、フィリピンの人々は小作人として、事実上の奴隷労働を強制されたのです。, 小作人の生活は重税に縛られており、収入はわずかなものでした。ほとんどの人々が、食べていけるかどうかというぎりぎりの貧困状態に追い込まれました。, http://www.slideshare.net/CarloPMarasigan/organic-laws-implemented-in-the-philippines-and-heroes, 380年に及ぶ長い歳月に渡り、フィリピンはスペインの植民地として利益をしぼり取られてきました。, その間も侵略者であるスペインへの抵抗は止むことがなく、繰り返されました。そのたびに多くのフィリピン人が、スペイン軍によって虐殺されていきました。, それでも、1898年にはフィリピンからスペイン軍を追い出すことに成功し、ついに念願の独立を勝ち取りました。しかし、スペインから2000万ドルでフィリピンを買い取ったアメリカは、フィリピンの独立を認めませんでした。, 独立を求めるフィリピンとアメリカの間で戦争が起き、少なく見積もっても20万人以上のフィリピン人がアメリカ軍に殺されたと、米議会にて報告されています。, 当時は欧米列強によるアフリカやアジアの植民地化が、当然のごとく行われていました。下の地図は、欧米の植民地になったことがある国を色分けした世界地図です。, http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Colonialism, 青の部分が植民地になったことがある国、水色が半ば植民地化されていた地域、灰色が欧米の植民地になったことがない国です。, 地図を見れば欧米による植民地化が、アジアとアフリカのほぼ全土に渡って繰り広げられていたことがわかります。, 灰色の国はごくわずかです。アジアで事実上、植民地とならなかったのは、日本と日本が合併していた朝鮮と、タイのみです。, 白人による黄色人種や黒人に対する植民地支配には、激しい人種差別がまかり通っていました。, http://philippines1900.tumblr.com/post/264595846/education-as-a-colonial-tool, アメリカはスペインやフランス・イギリス・オランダなどが、アジアの植民地で暴虐な圧政を敷いたことで、占領政策に苦労していることを見ていたため、フィリピンに対しては他国に比べて穏やかな支配を行いました。, インフラが整備され、学校がフィリピン各地に建てられました。通常、植民地には愚民政策がとられることが多いなかで、植民地支配した国に教育を施すことは珍しい例です。, 愚民政策とは、原住民に教育を施さないようにするための政策です。たとえばオランダが植民地にしたインドネシアでは、基本的に現地人への教育が禁止されていました。, アメリカは教育により、スペイン統治下にフィリピン社会に根付いた貧富の差を解消しようと努めました。, 人々は,貴族階級の無軌道な統率と圧政に,生まれつき逆らうことなく身を任せている。スペイン人はこれを「ボス支配」と呼んだ。本諸島の政府はあらゆる手段と政策をもって,これを打破しなければならない。上記の必然的帰結として,我々の公立学校制度は大衆のためのものとなるべきである。, しかし、現実は異なりました。教育現場の思いとは裏腹にアメリカは、フィリピンにすでにできあがっていた支配の構造を、壊さないまま利用する政策をとりました。, 380年のスペイン支配の間に、スペイン人と地元民とは混血しました。彼らはメスティーソと呼ばれました。スペイン時代の終わりには、メスティーソを中心とする強い支配構造が、フィリピンを覆っていました。, この既存の支配構造を壊して新たな支配構造を作るとなると、時間もかかれば、激しい抵抗を武力で抑えつけなければならなくなります。, アメリカはこうした無駄を省き、すでにできあがった支配構造を利用しながら、自分たちの利益を得ようとしたのです。, こうしてアメリカは、スペイン統治下の支配構造をそのまま受け継ぎ、プランテーションと呼ばれる大規模農場経営をフィリピンで展開しました。, つまり、アメリカの植民地となっても、フィリピンに横たわる貧富の差は、まったく解消されなかったのです。, http://newsjunkiepost.com/2013/08/08/feudalism-and-colonialism-the-case-of-the-philippines/, スペインやアメリカがフィリピンなどの植民地で展開した農業を、アグリ・ビジネスと呼びます。アグリ・ビジネスとは、食品としてではなく、商品として農作物を扱う農業のことです。, プランテーションでは、低賃金労働が強いられました。もちろんフィリピン人には、これを拒否する自由はありました。しかし、人口があり余ったフィリピンでは、たとえ低賃金であっても仕事にありつけるだけましであり、働き手はいくらでもいました。, また、プランテーション内部には労働者向けの小売店が設けられており、労働者がそれを利用することで、給与の一部が土地所有者に戻っていく仕組みになっていました。, このような条件下では、プランテーションで働くフィリピン人がいつまでも貧困から抜け出せないのは、当然です。, キャパシティを超えて増え続ける人口の問題は、現在もフィリピンを苦しめています。カトリック教会の圧力に屈することなく、ドゥテルテ政権は避妊を広めようとしています。, フィリピン人の多くは、プランテーションでの低賃金労働に甘んじるか、土地所有者の小作人となってわずかばかりの収入を得るかの、どちらかを選ぶよりありませんでした。, アメリカの経済圏に組み入れられたフィリピンでは、プランテーションで産出された農作物が、中華系の企業を仲立ちとしてアメリカ本土のアグリビジネスへと送られました。, フィリピンの大地が生み出した利益は、スペイン系大地主と中華系商人が吸い上げ、アメリカのアグリビジネスを潤わせます。, スペイン系大地主と中華系商人の家系は現在、財閥となり、フィリピンの経済を支配しています。, 財閥や一部の地主が大規模な土地を所有している状態は、現在も続いています。フィリピンに中間層が育たない最大の原因は、土地を所有できないからです。, 1946年:マニラ条約に調印するトルーマン大統領http://thephilippinesamodernhistory.blogspot.com/, ここまで、フィリピンの貧富の差が、スペインとアメリカによる植民地支配によって構造的になされてきたことを紹介しました。, 植民地政策には多少の違いはあるものの、どのアジアの国でもさほど違いはありません。植民地での支配をたやすくするために、現地での支配層が生まれ、宗主国の人々による移民が行われ、その国の支配の構造が生まれます。, つまり、フィリピンばかりでなく周辺諸国にしても、欧米の植民地政策により強制的に貧富の格差を生む社会が作られたのです。, しかし、周辺諸国が次々と貧富の差を解消しているのに対して、フィリピンだけは取り残されたままです。その原因はどこにあるのでしょうか?, http://idreamofbali.com/blog/indonesian-independence-day/#.WItzPhuLSUk, その大きな原因として、独立後もフィリピンでは、アメリカの経済植民地としての状態が長く続いたことがあげられます。, そもそも独立に至る経過が、周辺諸国とフィリピンでは異なります。日本が戦争に敗れ、駐留していたアジア諸国から軍を引くと、旧宗主国の軍隊は再びアジア諸国を植民地にするために舞い戻ってきました。, しかし、日本軍が去ったあとのアジア諸国は、植民地として半ば奴隷のような待遇に甘んじていた頃とは明らかに違っていました。, たとえばインドネシアは日本が連合国に降伏した後に独立を宣言し、舞い戻ってきたオランダ軍と戦争に突入しました。インドネシアに残っていた日本兵の多くがインドネシアのために立ち上がり、インドネシア兵とともに戦いました。この戦争では一千名以上の日本兵が戦死しています。, 戦争は4年5ヶ月に及び、80万人以上のインドネシア人が犠牲になりました。そうして多くの血を流すことで、インドネシアは独立を果たしたのです。, アジア諸国は独立とともに、宗主国の支配を離れ、植民地時代に作られた支配構造を変えていきました。, ところがフィリピンは例外で、独立を達成したあともアメリカが事実上、フィリピンの経済に影響を与え続けました。, http://tagalogrepublic.blogspot.com/2009/11/us-grants-philippines-independence.html, アメリカがフィリピンを経済的に支配する礎となったのが、悪法として名高い「ベル通商法」です。これはフィリピンにとって、完璧な不平等条約でした。, ベル通商法には、アメリカ資本やアメリカ企業は、フィリピン全土の天然資源の開発を自由に行えること、公共事業を運営する際に、フィリピン人となにも変わらない平等の権利を認められること、28年間の特恵関税などが定められていました。, つまり、独立とは名ばかりで、実質的にはフィリピンは、アメリカの経済植民地として搾取(さくしゅ)され続けたのです。, スペイン系大地主と中華系商人による支配構造には、なにも変化はありませんでした。彼らはアメリカの企業と結びつき、蓄財に励みました。, その間、反米デモは何度か起きましたが、大きなうねりにはなりませんでした。今日ではドゥテルテ大統領の反米よりの暴言が話題になっていますが、それはなにもドゥテルテ大統領だけの特別な思いではありません。, ベル通商法は名前を変えながらも生き続け、その後フィリピンを30年近く縛り続けました。その名残は現在も、けして消えてはいません。, フィリピンのスモーキーマウンテン https://fan-interference.com/2015/12/29/baseball-in-the-philippines-the-smokey-mountain-field-of-dreams/, フィリピンの貧困をなくすための方法については、多くの経済学者の見解が一致しています。なによりも急がれるのは、農地の解放です。, 小作人でいる限り、農作物のほとんどを地主に収めなければいけません。ひどい地主になると、農作物の9割を奪われるため、小作人ではまともな暮らしを送ることはできません。, そのため、フィリピンの農民のなかには小作人をやめて、都会を目指して上京する人が増えました。そうした貧困者が、ゴミ捨て場に勝手にバラックを建てて住み着くようになったのです。, こうして、スモーキーマウンテンが作られました。日本のテレビでもたびたびその状況は紹介されています。, しかし、フィリピンでの農地改革は進んでいません。フィリピンの支配層である財閥は政治の世界にもすっかり根を下ろしています。, 地方も例外ではなく、財閥や地主の一族から政治家が生まれ、地方の政財界を牛耳っています。そこには貧困を是正するどころか、富めるものをさらに富ませ、貧しき者をさらに貧しくする構造が横たわっています。, 中央では農地改革を阻む勢力として財閥と政治家が結びつき、アメリカのアグリビジネスを行う企業と関係を深めています。両者の利害は一致しています。, 反アグリビジネスに身を投じた活動家や弁護士、その真実を暴こうとしたジャーナリストは、暗殺など不審な死を遂げるのがフィリピンの現実です。, http://www.trendingnewsportal.net.ph/2016/10/president-duterte-questions-rule-asking-funds-from-farmers-for-farm-tractions.html, 歴代大統領のなしえなかった農地改革への期待が、ドゥテルテ大統領に寄せられています。前アキノ大統領は地主の一族出身であり、農地改革には消極的でした。, 財閥や地主とはなんの関係ももたないドゥテルテ大統領であれば、思い切った農地改革ができるのではないかと、大いに期待されています。, ドゥテルテ大統領とマリアノ農地改革相は、大統領自身が委員長となる農地改革委員会(PARC)を、およそ10年ぶりに復活させました。, 農地改革法はマルコスが大統領だった時代に制定されましたが、実質的な成果をあげることはできませんでした。, マルコスが親族を優遇し、汚職がはびこったことはたしかですが、その一方でマルコスは独裁政権を敷くことで、財閥の力を強制的に剥がそうとしたことも事実です。

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