© Copyright 2020 社会人の教科書 All Rights Reserved. 「景気」は、我々の生活にとって最も重要な話題の1つです。周知のように、活気のある場合は「好景気(好況)」、落ち込んでいる場合は「不景気(不況)」と呼ばれますが、景気はこの「好景気」と「不景気」を、交互に繰り返す性質があります。経済学ではこうした動きを指して、「景気循環」もしくは「景気の波」と呼んでいます。 もちろん日本においても、「景気循環」は現在まで連綿と続いてきました。その中には「いざなぎ景気」のように有名なものもあれば、「転型期不況」のようにほとんど聞いたこともないものもあります。それらについて知ることは、戦後以降の日本の歴史を学ぶことにもつながります。, そこでここでは、日本における「景気循環」について、戦後から現在に至るまでの流れを順に追って解説していきたいと思います。, 日本における景気循環(第1循環)、最初に挙げるのは、「朝鮮特需景気」です。「朝鮮特需」とも呼ばれますが、これは朝鮮戦争をきっかけとして起こった好景気になります。, 朝鮮戦争は、1950年に当時成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で勃発しました。これに応じ、戦争開始直後の6月にアメリカ軍による在日兵站司令部が設けられ、大量の物資が日本の各企業へ発注されるようになります。その際調達された物資は、軍服や土嚢用麻袋などに使用する繊維製品や、陣地構築に必要な各種鋼材のほか、食料品やコンクリート材料、車両修理など多岐に及びました。, 朝鮮戦争をきっかけとしたこの好景気は、50年から52年の3年間で10億ドルにもおよび、55年までの間接特需では、36億ドルにものぼるとされています。, 日本における景気循環、続いては不景気の局面ですが、こちらは「朝鮮特需」の最中に起こった不況(反動不況)です。, 上記のように、朝鮮戦争は1950年に勃発し、その後しばらくは日本に好景気をもたらしました。結果としては、休戦協定が結ばれた後もさまざまな経済効果を生みますが、しかし、その間ずっと好況が続いていたわけではありません。戦争開始から1年ほど経つと、好景気は一変し、「反動不況」と呼ばれる不景気の時期が訪れます。「朝鮮特需」が最初のピークを迎えたのは、1951年の6月ですが、その後は公定歩合の引き上げもあって景気は後退期に入り、同年10月には谷間へと落ち込むこととなりました。その後は再び上昇に転じますが、約5カ月ほどは、日本は不景気を経験することとなりました。, 続いての景気循環(第2循環)の局面は、「反動不況」後の「投資・消費景気」と呼ばれるものです。文字通り、活発な投資と消費がもたらした好景気になります。, 「朝鮮特需」によって戦後の混乱から抜け出した日本では、それを契機として消費ブームが訪れました。やがてそれは投資ブームへ引き継がれることとなり、これによってもたらされた好景気は、「投資・消費景気」と呼ばれるようになります。 この好景気は、1954年の1月ごろにピークを迎えました。この時設備投資の中心となったのは、電力・海運・鉄鋼・石炭の4大重点産業です。また53年には、1人あたりの実質消費が戦前を上回るなど、戦後の本格的な復興へ向けた基盤が固まることとなりました。, 続いての景気循環は不景気ですが、こちらは「昭和29年不況」と呼ばれるものになります。, 前述のように、「朝鮮特需」から始まった好景気は、「反動不況」を経て「投資・消費景気」へと引き継がれました。しかし、特需景気も終了し、投資や消費のブームも一段落すると、今度は純輸入が増大して外貨危機が顕在化することとなります。いわゆる「国際収支の天井」と呼ばれる事態ですが、これを避けるために、政府は財政・金融による引き締め政策を行います。これはわざと景気を後退させ、外貨準備を保とうというものです。これにより、「投資・消費景気」は終息に向かい、10ヵ月の後退期を経て、景気は1954年(昭和29年)11月に谷間を迎えることとなりました。, 上記の「昭和29年不況」を経て、景気循環(第3循環)は好景気へと転ずることになりますが、この時の好況を指して、「神武景気」と呼んでいます。, 前述の財政・金融の引き締め政策で国際収支が安定したことから、政府は引き締め政策を緩和します。これによって再び投資が上向いたのに加え、世界的な景気拡大の波もあって、輸出の下支えが働いたこともプラスとなりました。この時期の好景気は、「国際収支の改善」「物価の安定」「オーバーローンの是正」を同時に達成しており、日本経済の自立を証明するものでもありました。 こうした好景気は1957年6月ごろまで続きますが、56年(昭和31年)の経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたことで、国内では戦後復興の完了が印象付けられることとなりました。, ちなみに「神武景気」の名称は、「神武(初代天皇)が即位して以来、例がないほどの好景気」という意味です。, 上記のように、「神武景気」は戦後の復興を本格化させる好景気として1957年6月ごろまで続きますが、その後は一転して景気が冷え込みます。その要因としては、輸入が急増したことによる国際収支の悪化と、それに伴う政府や日本銀行による金融引き締め政策が挙げられます。 この引き締め策により、産業界は軒並み減収・減益、資金不足に陥り、操業短縮による在庫調整が行われました。この不況については、当時景気の長期低迷は避けられないとする「なべ底論(中華鍋の底を這うような形で推移する)」と、不況は一時的なものとする「V字型論」の2つが唱えられましたが、58年の経済白書においては「なべ底論」が採用され、「なべ底不況」の名で呼ばれることとなりました。しかし、実際には不況は58年6月で収束したため、結果的にこの予測は外れています。, 「なべ底不況」の次の景気循環(第4循環)としてやってきたのが、「岩戸景気」と呼ばれる好景気です。, 上記のように、「なべ底の形のように長期化する」と見られていた「なべ底不況」は、1958年の7月ごろに底を打ちます。さきに行われた金融引き締め政策によって輸入が減少したことで、国際収支が改善したことが要因でした。その結果、引き締め策は撤回され公定歩合が引き下げられたことから、消費需要や投資投資が急増することとなります。特に投資熱は大きく、ある民間企業の設備投資が別の企業の設備投資を招くといった状況で、「投資が投資を呼ぶ」と言われるほどでした。結果この好景気は、拡張期が42ヵ月と日本の経済史上でも屈指の長期に及び、「神武」の前のさかのぼる「天岩戸」の故事から、「岩戸景気」の名で呼ばれるようになりました。, 前述の「岩戸景気」は、1958年の7月から1961年の12月まで続くこととなりましたが、その次に訪れたのが、「転型期(てんけいき)不況」と呼ばれる不景気です。, 戦後空前の好景気だった「岩戸景気」を収束させたのもまた、国際収支の悪化による金融引き締め政策でした。1961年1月からは、国際収支改善対策として、財政支出の一部繰り延べや公定歩合の引き上げなどが行われます。これにより景気は冷え込み、62年のGDP成長率は、8.7%(59~61年は実質10~13%)にまで鈍化しました。この後退期は、1962年の10月まで続くことになります。, 「転型期」の名前がついているのは、62年の経済白書で「設備投資主導型の高度成長は転機を迎え、以後の経済成長率の鈍化と成長パターンの変化は避けられない」とされたことによります。, 「転型期不況」は、前述のように1962年10月まで続きました。上で述べた金融引き締め政策によって輸入が減少したことと、堅調な輸出によって再び国際収支は改善します。これをもって引き締め策が解除されたことにより、62年の12月以降は景気が上向くこととなりました。, この好景気は、1964年の10月までおよそ24ヵ月続くことになりますが、64年夏には「東京オリンピック」が開催されたことから、「東京オリンピック景気」の名で呼ばれるようになっています。事実、オリンピックに向けた建設需要は活況を呈しましたが、実際にはそうした状況がそれほど長く続くことはありませんでした。また、輸出と個人消費は堅調に伸びたものの、設備投資の拡大テンポの伸びは鈍化したという面もあります。, 上記の「東京オリンピック景気」による好景気は、オリンピック終了後の1964年10月に収束します。63年にはすでに国際収支は悪化しており、再び金融引き締め政策が実施されることとなりました。これにより、64年11月からは景気は低下局面に入ります。これにはまた証券市場の動きも絡んでいました。 それまでの好景気で、日本の証券市場は急成長していましたが、「東京オリンピック景気」の収束で企業の業績が低迷すると、その影響が証券市場にも及びます。大手証券会社は軒並み赤字に陥り、日銀は公定歩合を引き下げるなどしましたが、実質的な効果はありませんでした。「証券不況」は、1965年10月まで続くことになります。, 「証券不況」を経て、景気循環(第6循環)は好景気へ移ります。今度の局面は、「いざなぎ景気」と呼ばれるものです。, 上記のように、「証券不況」収束のために公定歩合の引き下げが行われますが、効果はほとんどありませんでした。そこで次の策として、1965年5月に山一証券への日銀特融を、7月に戦後初となる赤字国債発行を決めたことにより、同月を底値として株価は上昇に転じます。これを契機として始まった好景気は、その後1970年の7月まで、57ヵ月にもわたって続くこととなりました。, 「いざなぎ景気」の名前は、やはり日本神話に由来しています。「いざなぎ」は国生み神話で知られる「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」のことで、「神武」や「岩戸」を越える古い存在ということで名づけられました。, 57ヵ月の長期に及んだ「いざなぎ景気」により、日本経済はGNP世界2位にまで上昇します。 その「いざなぎ景気」は、1970年の7月をピークに収束しますが、これには国内景気の好況によるインフレ圧力が関係していました。長期の好景気によって商品や労働の供給がひっ迫し、コストプッシュインフレが囁かれるようになったことから、戦後初めて国際収支黒字の下での金融引き締め政策が取られます。さらに71年には、「ニクソンショック(固定比率での米ドル紙幣と金の兌換の一時停止による、世界的な経済ショック)」が起こったこともあり、景気後退の局面は71年12月まで17ヵ月間続くこととなりました。, この景気拡大のきっかけとなったのは、金融緩和と政府の公的投資でした。1971年の「スミソニアン協定」による円の切り上げで生じたデフレ圧力を相殺するため、日本政府は積極的な金融・財政政策に舵を切ります。これにより、72年ごろから景気拡大の速度が急速に上がり始めました。さらに、田中角栄氏による「日本列島改造論」に触発され、日本各地で大規模な土地開発ブームが沸き起こったことも、こうした好況に拍車をかけることとなります。「日本列島改造景気」という呼び方は、このような状況に由来しています。, この好景気は、71年12月から73年11月まで、およそ23ヵ月にわたり続くこととなりました。, 「日本列島改造景気」に続くのは、「第1次オイルショック不況」と呼ばれる不景気の局面です。, 「日本列島改造景気」のころから、日本では物価上昇の速度が加速し、インフレが問題化してきました。それを抑えるため、政府は1973年の春に金融引き締め政策に乗り出します。 しかし、これに73年秋に発生した第1次オイルショックが重なったことで、「狂乱物価」と呼ばれる大インフレが発生しました。国内の消費は落ち込み、政府もインフレ対策で大型公共事業を凍結・縮小するなど、不況が拡大します。また国際収支も赤字となり、「スタグフレーション」「トリレンマ」などの新語が誕生することとなりました。, 前述の「第1次オイルショック不況」は、1975年の3月をピークとして一段落します。これは、これまでの建設国債に加えて赤字国債の発行を行ったことや、公定歩合の引き上げといった財政金融政策が、一定の成果を上げたことも影響していました。また、前年までで大きく落ち込んでいた需要にも反動が起こり、景気はやや持ち直します。さらに、各企業が不況を受けて大幅な「減量経営」に乗り出したことで、76年には企業の対前年度比経常利益が74.3%と、戦後最高を記録することとなります。, インフレも収束に向かい、経常収支も黒字化するなど、好景気は77年1月ごろまで続くこととなりました。, 「省エネ景気」は、前述のように1977年初めまで続きますが、その後景気は下降局面に入ります。これは、77年にニクソンショック以来2回目の円高になったことが影響していました。これによりレートの模様眺め気配が強まったことで、企業マインドが沈静化されることとなります。, インフレが収まって物価が安定し、国際収支も改善したとはいっても、それまでの好景気は企業の減量経営によるものというのが実情でした。そのため、これまでのように公定歩合の引き上げが行われたわけではなく、また公共事業の促進等も行ったにもかかわらず、不景気は77年10月ごろまで続くこととなります。, この好景気のきっかけとなったのは、公共投資の増加と金融の緩和政策でした。「経済白書」では、「78年をもって第1次石油危機の調整過程は完了した」と述べていますが、国内の消費も回復し、減量経営が続いていた企業の設備投資も、増加に転じることとなります。円高は78年78年8月にピークを迎えるなど依然続いていましたが、「Jカーブ効果(為替レートの変動から予測されるものとは別方向に、短期的な貿易収支が振れる現象)」のために、貿易収支は大幅な黒字を記録します。, この「公共投資景気」は、1980年2月ごろまで、約28ヵ月にわたり続くこととなりました。, 「公共投資景気」に続いての景気局面は、「第2次オイルショック不況」と呼ばれる不景気です。, 1979年に起こった「イラン革命」により、イランでの石油生産が一時ストップします。このため、イランから大量の原油を輸入していた日本は、需給がひっ迫することとなりました。これによって原油価格は、第1次オイルショック時よりも上昇する事態となります。 ただ、公定歩合の引き上げもあって消費者物価の上昇が相対的に低く収まったため、混乱は前回ほど大きくありませんでした。それでも、この石油危機を契機とした金融引き締め政策により、景気は後退局面に入ることとなります。 さらに公的投資の抑制や、世界的な不況なども重なり、「第2次オイルショック不況」は83年2月まで36ヵ月にわたり続くこととなります。, 「第2次オイルショック不況」は、戦後からそれまでで最長の不景気でした。その空気を変えたのは、財政・金融政策とアメリカの景気回復です。「レーガノミクス」と呼ばれる経済政策により、アメリカに好景気が到来したことで、日本の対米輸出が急増します。この時期の経済成長への輸出寄与率は、実に48%にも上りました。さらにその結果、こうした輸出関連の半導体やコンピュータといった、ハイテク産業が拡大することとなります。 この好景気に対し、一部で「ハイテク景気」の名称がつけられているのは、このためです。, 「ハイテク景気」により、対米輸出が急増したことは上でも述べました。しかしその結果、アメリカとの間に深刻な貿易摩擦を引き起こすこととなります。これにより、1985年に行われた「プラザ合意(先進国による為替レート安定に関する合意)」で、アメリカの対日貿易赤字解消を目的として、円高が誘導されることとなりました。その後、実際に市場為替レートは大幅な円高に振れ、輸出に頭打ち傾向が出始めることとなり、景気は後退局面に入ります。「円高不況」の名がついているのは、こうした状況によります。, 「バブル」の名称でも有名なこの好景気は、1986年12月から1991年2月までの間に起こりました。このきっかけとなったのは、公定歩合の史上最低への引き下げと、公共投資の拡大などです。 これによって「円高不況」を抜けたことに加え、積極型の財政・金融政策や逆石油ショック(石油相場の急落)も重なって、良好な内需主導型の景気拡大が長期にわたり続くこととなりました。この好景気を受け、1989年12月29日には、日経平均株価が史上最高の38,957円の高値をつけるに至っています。 後に知られるように、この空前の好景気は一気にはじけたことから、「バブル景気」の名で呼ばれることとなりました。, 日本の経済史上でも類をみない「バブル景気」が終わった後には、「バブル崩壊不況」という不景気がやってきました。, 「バブル景気」の実態は、1986年からの「円売りドル買い」政策でマネーサプライが急増し、国内に「カネ余り現象」が発生したことで、これを資金とした金融機関による株や土地の投棄が横行し、地価や株価が高騰したというものでした。さらに大幅な金融緩和政策が続いたこともあってバブルが膨らみましたが、89年5月の公定歩合引き上げや、90年3月の「総量規制(不動産向け融資の伸び率を、総貸出の伸び率以下に抑えるという行政指導)」などをきっかけとして、バブルは崩壊することとなります。, 「平成不況」とも呼ばれる「バブル崩壊不況」は、91年3月から93年10月まで続くこととなりました。, 「カンフル景気」は、1993年11月から97年5月まで続きました。「カンフル」の名は、政府による数度の経済対策が、景気に対しカンフル剤の役目を果たしたことに由来します。日本政府は、93年4月に総合的な経済対策として13.2兆円を、さらに9月には、緊急経済対策として5.9兆円の支出を行っています。さらに、94年2月にも15.3兆円の経済対策を行い、93年には公定歩合を2.5%から1.75%に引き下げるなどしました。こうして94年からはGDP成長率や企業収益も改善しますが、その実態は強引な景気浮上策や大幅なリストラによるところが大きく、完全失業率などの数字で見ると、本物の好景気とは言い難い側面もあります。, 「カンフル景気」に続く不景気は、「日本列島総不況」と呼ばれるものです。これは、1997年6月から99年1月まで、20ヵ月にわたって続きました。, 「カンフル景気」が本当の好景気とは呼びにくいことは、上で述べた通りですが、その後の不況はかつてないほど厳しいものでした。その厳しさは、失業と倒産の数の多さに表れています。 98年には、国内の全地域で完全失業率が過去最悪の水準(全国4.1%)に達し、有効求人倍率も0.53倍と、過去最低の水準を記録しました。企業倒産で見てみると、戦後3番目に多い18,988件を記録しています。また負債総額においても、13兆7,500億円という戦後2番目に悪い数字を記録しました。こうした最悪の状況から、この時期の不景気は「日本列島総不況」の名が冠されています。, 「日本列島総不況」に続く景気循環(第13循環)は、「ITバブル景気」と呼ばれるものです。「インターネット・バブル」とも呼ばれるこちらの好景気は、1999年2月から2000年11月まで続きました。, 名前の通り、背景にはインターネットやIT(情報技術)の発達が関連しています。アメリカではこうした分野の企業に投資が集中し、多くのベンチャー企業が誕生して、株式市場も活況を呈しました。日本でも、この時期に多くのIT関連の企業が誕生し、興隆するといった状況が生まれています。また、アメリカのハイテク株への投資を謳い文句とした投資信託商品が組成されるなどもしました。日本において投資の対象となったのは、主に既存の通信・携帯電話関連株や、コンピュータ関連株、半導体、通信ケーブルなどでした。, 「ITバブル景気」に続いて訪れたのは、「ITバブル崩壊不況」と呼ばれる不景気です。, 「ITバブル」は、上記のように2000年の終盤まで続きましたが、期間としてはおよそ14ヵ月と、それほど長いものではありませんでした。2000年の3月には、光通信による携帯電話売買の不正が明るみに出た結果、それを引き金として、関連銘柄も大きく値を下げるなどしています。こうして日本のネットバブルは崩壊しますが、アメリカでもまた、ドルの利上げや同時多発テロ事件などもあり、ネットバブルは崩壊します。しかし、日本では依然平成不況や就職氷河期が続いており、IT関連投資が部分的だったことから、アメリカのバブル終焉の影響は限定的なものでした。「ITバブル崩壊不況」は、2000年12月から2002年1月まで続くこととなります。, 続いての景気循環(第14循環)は、「いざなみ景気」と呼ばれる好景気です。こちらは2002年2月から、2008年2月まで73ヵ月にわたって続きました。, 好景気のきっかけとなったのは、2001年からのゼロ金利政策に代表される、一連の金融緩和政策です。大幅な為替介入によって生じた円安や、北米などの好調な需要の牽引もあって、輸出関連産業を中心とした多くの企業が、過去最高の売上高・利益を記録しました。また、大企業の積極的な設備投資もあり、国内の雇用も拡大します。企業倒産件数もこの間大幅に減少し、96年以来の水準まで下がることとなりました。, 「いざなぎ景気」を上回る期間に及ぶことからこの名で呼ばれていますが、その一方で景気の恩恵が一部に偏ったことや、経済成長が緩やかであったことから、一般には実感が湧きにくい好景気だったとされています。, 「いざなぎ景気」に続く局面は、「リーマン不況」と呼ばれる不景気です。「リーマンショック」の名でも知られており、2008年3月から2009年3月まで続きました。, 「リーマン」の名がつけられているのは、アメリカの投資銀行「リーマン・ブラザーズ・ホールディングス」の経営破綻に端を発しているためです。2007年の時点で、すでにアメリカにおける住宅バブルは崩壊しており、「サブプライム住宅ローン危機」が起こっていました。これによって多額の負債を抱えたリーマン・ブラザーズは、2008年9月に経営が破綻しますが、その影響はアメリカ国内だけでなく、世界中へ波及することとなります。 日本は直接的な被害こそ軽微でしたが、この件をきっかけとした世界的な需要の落ち込みにさらされ、輸出産業などが大きなダメージを受けることとなりました。, 「リーマン不況」に続く景気循環(第15循環)は、「エコ景気」と呼ばれる好景気です。こちらは2009年4月から、2012年3月まで続きました。, 「エコ」の名がついているのは、いわゆる「家電エコポイント事業」によって刺激された好景気のためです。「家電エコポイント事業」とは、日本政府がリーマンショックを機として、2009年度の補正予算などにおいて行った経済・景気対策の1つになります。これは、地球温暖化の防止や経済の活性化、地上デジタル放送テレビの普及などを目的に、省エネ機能の高いエアコンや冷蔵庫などの購入者に対し一定のエコポイントを付与するという制度で、エコポイントは事務局が選定するさまざまなエコ商品と交換することが可能でした。 このエコポイントの制度は、最終的に2010年度いっぱいまで延長されています。, 「エコ景気」に続いて到来したのは、「円高不況」による不景気です。「円高不況」は、2012年4月から2012年11月まで続きました。, 名称の由来は、もちろん円高にあります。円高自体は、2007年のサブプライムローン危機のころから進行していました。この時期1ドル=100円を突破すると、その後も勢いは止まらず、2008年以降は1ドル80円代後半~90円台で推移するようになります。2010年代に入ってもその傾向は続き、アメリカ連邦準備制度理事会による金融緩和政策の実施や、東日本大震災による円資金需要の高まりなどもあって、円高はますます進行することとなります。2011年3月17日には、一時76円25銭をつけるにいたりました。こうした円高は、日本の製造業にかなり悪影響を与えています。, 「アベノミクス」とは、第二次安倍内閣で掲げられた、一連の経済政策を総称したものです。これは、かつてロナルド・レーガン米大統領が行った「レーガノミクス」にちなんで名付けらています。 「アベノミクス」の概要は、デフレ経済の克服を目的としてインフレターゲットを設定し、その達成がはかられるまで、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を取るというものでした。, 2012年末の「アベノミクス」施行後、日本の名目総生産は、2012年の494兆円から2017年までの5年間で、過去最大となる549兆円に増加しています。こうした景気拡大局面は、2019年1月時点で74ヵ月となり、「いざなみ景気」を抜いて戦後最長を記録したとされています。, 「社会人の教科書」は社会人のためのビジネス情報マガジンです。ビジネスマンやビジネスウーマン向けに働く上で欠かすことができない情報・ノウハウや仕事上で役立つツールなどをまとめてお届け致します。. from アメリカ vol. 2020年後半の新型コロナ感染拡大後のアメリカ経済の現状と今後の景気動向について考察します。2020年7月30日、アメリカ商務省は同年4-6月期のgdp(国内総生産)の伸び率が前期比マイナス32.9%となったと発表しました。 アメリカ合衆国の経済史(アメリカがっしゅうこくのけいざいし)では、主に17世紀にヨーロッパ人が現在のアメリカ合衆国となった地域に入ってきてからの経済の歴史を概説する。1776年、イギリスの13植民地が合同してアメリカ合衆国となった。19世紀の間に、アメリカ合衆国の経済は外資へ依存しながら工業化された。第一次世界大戦後にアメリカは世界経済の債権国へ伸し上がった。資源国としても世界中から移民を惹きつけて、技術と産業を国際的に発展させた。20世紀後半には、成長しつづける 「アメリカの歴史 - 世界史年表」ではアメリカの歴史を年代、時代別に分かりやすく分類しています。中学、高校、大学生の勉強から受験、大人の教養などの学習にご利用できます。 アメリカの歴史ナビではアメリカ独立戦争・アメリカ独立宣言・アメリカ領土拡大・南北戦争・米西戦争・奴隷解放宣言・第一次世界大戦・世界大恐慌・第二次世界大戦・冷戦・湾岸戦争・イラク戦争・同時多発テロ・リーマン・ショックなどのアメリカ史の重要な出来事を紹介しています。 本稿では、1945年から1964年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この時代は冷戦の初期と公民権運動が特筆される。. 「公共投資景気」に続いての景気局面は、「第2次オイルショック不況」と呼ばれる不景気です。 1979年に起こった「イラン革命」により、イランでの石油生産が一時ストップします。 大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の紛争を防止しようと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカ自身は不参加という結果となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。また、 71 2015.03.31 不景気育ちの未来都市、ポートランド。愛される街の秘密とは? 愛される街の秘密とは? 2つの歴史的ショックを乗り越えて ョックを乗り越えて, オレゴンの大地に根ざした感覚, 先進的な町会組織が街を動かす, 食と農へのこだわりと挑戦マインド, みんなが覚えているカーペット柄, 自然と暮らすという共有価値が生んだ未来. 今回は戦後のアメリカの大不景気と日本について、日本の歴史を紹介します。 アメリカの大不景気と日本 不景気は日本ばかりではありませんでした。 1929年(昭和4年)の秋、それまで発展し続けていたアメリカが突然世界ではじめて … 【update】abc、cbs、nbc、cnnなどの米主要メディアは日本時間11月8日午前1時過ぎ、アメリカ大統領選で民主党のジョー・バイデン候補(77)が「当選確実」「次期大統領に選ばれた」と伝えた。各社、激戦州ペンシルベニア州で勝利し 【update】abc、cbs、nbc、cnnなどの米主要メディアは日本時間11月8日午前1時過ぎ、アメリカ大統領選で民主党のジョー・バイデン候補(77)が「当選確実」「次期大統領に選ばれた」と伝えた。各社、激戦州ペンシルベニア州で勝利し 本稿では、1945年から1964年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この時代は冷戦の初期と公民権運動が特筆される。, アメリカ合衆国のこの時代は、第二次世界大戦による荒廃と共産主義からヨーロッパを救おうとした活発な外交政策の期間と見ることができる。国内においては戦後の短い移行期の後で、経済が急速に成長し、核戦争の脅威が世界中を覆った。より強力な武器で相手を威嚇する競争が始まった。国連軍が朝鮮に派遣されて共産主義勢力と戦った。ソビエト連邦は共産主義諸国とワルシャワ条約機構を結成し、アメリカ合衆国を中心とする北大西洋条約機構 (NATO) 諸国に対抗した。, アメリカ合衆国内の大衆にとっては国際的緊張も国内の快適さで緩和された。特に1955年以降、高給を取り、大型高級車を乗り回し、家庭内では掃除機、洗濯機、トースター、ミキサー、アイロンなど手間を省略して家事を楽にする家電製品で生活を楽しんだ。21世紀初期に広く使われるようになったものはこの時代に初めて現れた発明だった。20世紀の初めに中流家庭では普通だった住み込みの女中や料理人は1950年代には事実上聞かれなくなった。自家所有者は温水で温められるセントラルヒーティングを取り入れた。新しいスタイルの家具は明るく、安く軽量であり、動かしやすかった。, 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が1945年5月8日に終わった時、ソビエト連邦と西側諸国(アメリカ、イギリス、フランス)の軍隊はドイツの中心を通る前線に位置していた。この前線について多少の調整が行われたものの、それがそのまま冷戦時の鉄のカーテンになった。ポツダム会談で合意されたように、オーデル・ナイセ線の東に住むドイツ国民は強制移住された。後に分かったところでは、ヤルタ会談で両陣営がドイツに留まり、どちらも他方を追い出すために軍事力を行使しないという合意に達していた。この暗黙の合意はアジアにも適用され、日本のアメリカ軍による占領と朝鮮の分割になった。冷戦の始まりとともに、短期間の戦後現状維持があったが、1949年に中国が共産主義勢力の手に落ちたことで変わった。共産主義勢力が世界のほぼ3分の1を支配し、一方アメリカ合衆国は世界の超大国となって残り3分の2に影響力を持ったが、その中でもマルクス主義運動の挑戦を受ける国があった。, アメリカ合衆国とソビエト連邦のビジョンには、民主主義を伴う資本主義と一党独裁制を伴う共産主義という基本的な違いがあり、この違いは大戦による惨状によって1945年にそれぞれが正当性を証明した2つの生き方を表す国のイデオロギーの中に単純化され作り上げられてきた。, 1945年4月以降ハリー・S・トルーマンが指導するアメリカ合衆国は、世界の市場を資本主義的原理に開放し、戦後世界を大西洋憲章が道筋を付けた原則に従って形作ることに決めた。すなわち、民族自決、平等な経済機会、および世界事情の中で中心となって活動できる資本主義ヨーロッパの再建だった。第二次世界大戦はユーラシア全体のインフラや大衆を破壊し尽くしており、無傷でいられた国はほとんど無かった。無傷に近い世界の主要工業国と言えば、経済面からは大きく強化されてすらいたアメリカ合衆国だった。, アメリカ合衆国は、世界銀行と国際通貨基金という新しい国際機関でその世界観を浸透させようともした。これらは開放的で資本主義の国際経済を確保するために創設された。ソビエト連邦はこれらに加わらなかった。, ソビエト連邦はその境界線で資本主義を封じ込め押し返すことが重要だとも見ていた。ヨシフ・スターリンはポーランド、ルーマニア、東ドイツおよびブルガリアに親モスクワ政権を押し立てることに決めた。これはヤルタ会談で東ヨーロッパには「自由選挙」が行われると請け合った自身の声明と矛盾していた。イギリスの前首相ウィンストン・チャーチルは1946年に、スターリンが「鉄のカーテン」で新しいロシア帝国の領域を閉鎖しようとしていると非難した。, アメリカ合衆国では、国務省の政策企画本部長に抜擢されたジョージ・ケナンの助言によって、ソビエト連邦の封じ込めが外交政策になった。ケナンはソビエトの権力崩壊が起こるまで「あらゆる点で不変の反撃能力を」使って「封じ込める」べきと論じた。この政策は1947年3月のアメリカ合衆国議会におけるトルーマン・ドクトリン演説で表明され、アメリカ合衆国は共産主義を「封じ込める」ために40億ドルを拠出することになると論じた。これはギリシャやトルコ、イランにおける共産主義の脅威と認識されたギリシャ内戦(1946年-1949年)の最中のことだった。トルーマンは、もしギリシャやトルコがその必要とする援助を受けなければ、共産主義に屈服するのを避けられず、その結果はドミノ効果で地域一帯を共産主義者に奪われることになると警告した。トルーマンは自党である民主党の多数の支持を得ただけでなく、議会与党共和党の支持も得た。共和党の上院議員アーサー・ヴァンデンバーグが共和党の国際派議員を率い、ロバート・タフトなど孤立主義派の反対を押し切った。トルーマンは1947年5月にトルーマン・ドクトリンに署名して立法化し、トルコとギリシャに対する軍事と経済の援助として4億ドルを認めた。, 1946年のシュトゥットガルト演説の後、アメリカ合衆国はドイツの占領政策に影響を与えたモーゲンソー・プランから緩りと離れ、再建政策の方向に進んだ[1]。ヨーロッパにおける衰退した経済と政治の情勢を見たアメリカ合衆国は、1947年半ばにまず西ヨーロッパで、続いて日本(南朝鮮や台湾を含む)で経済再建を始め、1949年には西ドイツも含めた。このマーシャル・プランでは西ヨーロッパに120億ドルを割り当てた。スターリンはその衛星諸国への介入を拒み、ドイツでソビエトの占領する地域奥深くにあるベルリンを封鎖する対応を取った。軍事的対立が迫る中で、トルーマンはソビエトを国際的に孤立させるような刺激策を採った。すなわちソビエトの占領地を越えてベルリンへの大空輸を開始したのであり、これは1948年から1949年まで続いた。, アメリカ合衆国は1949年に他の11か国と共に北大西洋条約機構を結成し、アメリカ史170年間で初めてヨーロッパと「関わる」ことになった。スターリンは東ヨーロッパの経済をそのマーシャル・プランに対抗するビジョンで統合し、1949年には初の核爆発実験を行い、1950年2月には中華人民共和国との同盟条約に調印し、1955年には北大西洋条約機構に対抗する東ヨーロッパのワルシャワ条約機構を結成することで応酬した。, 1949年、中国本土を支配した毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言し、その後モスクワに行って中ソ友好同盟相互援助条約の交渉を行った。, アメリカ合衆国政府はソビエトの成功が続く事態に直面して、素早く「封じ込め」を強化し拡げる動きに出た。1950年の機密文書NSC-68では、その同盟を強化し、防衛予算を4倍にし、アメリカ人がこの金のかかる冷戦を戦うことを説得するための念入りな宣伝作戦を始める提案を行っていた。トルーマンは水素爆弾の開発を命令し、その後間もなくソビエトも同様な核開発を行った。, 1950年代初期、アメリカ合衆国は西ドイツ軍を結成させる計画を立て、日本との間には長期間アメリカの軍事基地を置き、東アジアでアメリカ軍を展開させることを保障する平和条約を提案した。, トルーマン・ドクトリンはアメリカがベトナムに関わるようになることにも貢献した。トルーマンはフランスがインドシナ半島の植民地を維持する動きを援助しようとした。アメリカ合衆国はフランス軍に物資を供給し、軍事アドバイザーを派遣し、第一次インドシナ戦争で共産主義ベトナム人独立運動組織ベトミンと戦うように仕向けた。, 1950年6月、スターリンは北朝鮮がアメリカに支援される南朝鮮を侵略する作戦を承認した。トルーマンは即座にアメリカ軍を朝鮮に出兵させた。このとき議会への相談も承認取得も行わなかったが、北朝鮮を押し返し、朝鮮を再統一させることについて国際連合の承認は得た[2]。, 戦争の初期はアメリカ軍が破れ撤退することが続いたが、ダグラス・マッカーサー将軍が仁川上陸作戦を成功させたことで風向きが変わった。しかし、この攻勢も、数十万人の中国志願兵が宣戦布告無き戦争に突入し、アメリカ・国連・韓国連合軍を開始時点の北緯38度線まで押し返したことで止まった。戦争は膠着状態となり、アメリカ兵の死者は33,000名以上、負傷者は10万人となったが、封じ込め政策を継続する決議以外は何もなされなかった。トルーマンはマッカーサーを解任したが戦争を終わらせることはできなかった。ドワイト・D・アイゼンハワーは1952年の大統領選挙で、トルーマンの「朝鮮、共産主義および汚職」での失敗を攻撃し、自ら朝鮮に行って戦争を終わらせると約束した。アイゼンハワーは1953年に核兵器を使うと脅し、休戦で戦争を終わらせた。この休戦は現在でも有効になっている。, スターリンが1953年に死去し、1952年の大統領選挙に勝利したドワイト・D・アイゼンハワーはこの機会を利用して朝鮮戦争を終わらせたが、冷戦政策は維持した。国務長官ジョン・フォスター・ダレスが1950年代のアメリカ外交政策の中心人物だった。ダレスはトルーマン政権の「封じ込め」を非難し、共産主義の「後退」に繋がることになる積極的「解放」計画を取り入れた。この原則の最も著名な点は1954年初期にダレスが発表した「大量報復」政策であり、トルーマン政権の採った金のかかる伝統的地上軍の派遣を避け、アメリカの核兵器と機密情報の大きな優越性を生かそうとするものだった。ダレスはこのやり方を「瀬戸際政策」と呼んだ。, 両陣営は公然のまた秘密の手段を使ってその影響力の及ぶ範囲を拡張しようとし続けた。ソビエトの新しい指導者ニキータ・フルシチョフは、インドなど何処とも同盟していない第三世界の非共産国との新しい関係を築き上げることでモスクワの政策を拡張した。また水素爆弾を開発し、1957年には世界初の人工衛星を打ち上げることでソビエトの影響力を増した。, 同時にソビエトはその同盟国や友好国の結束を固めていった。1953年、ソビエト軍が東ドイツの暴動を鎮圧した。さらに1956年のハンガリーではハンガリー動乱にソビエト軍が介入して鎮圧した。, 1959年のキューバ革命をフィデル・カストロが成功させた後で、フルシチョフがキューバとの同盟を結び、大きな成功を勝ち得た。, しかし、この勝利は長続きしなかった。1961年、ソビエトと同盟国の東ドイツは、東ドイツ国民が共産主義東ドイツから逃亡し、かなりの支援を受けている資本主義西ベルリンに逃げ込むのを止めるためにベルリンの壁を構築した。これはソビエト連邦にとって情報戦略上の大きな挫折だった。さらに中国とソビエトの友好関係も悪化していた。, ソビエト連邦だけが他国への影響力を強めようとしているわけではなかった。アメリカ合衆国はその核兵器の優越性を振りかざしてソビエトの干渉を妨げ、中央情報局を使ってイランやグアテマラの政権を転覆させた。1958年、アメリカ合衆国はレバノンに9か月間軍隊を派遣し、内戦の危機を収めさせた。1954年から1961年、アイゼンハワーは南ベトナムに多額の経済援助と695人に上る軍事顧問団を派遣した。, 1956年、イギリスとフランスがスエズ運河の所有権を取り戻そうとして始めたエジプト侵略をアイゼンハワーが止めさせたときに、北大西洋条約機構内では最初の歪が生じた。アイゼンハワー政権はNATOの僚国の言い分を支持する代わりに、スエズ地域にフランスとイギリスの帝国主義に純然たる慎重論で反対し、エジプトの指導者ガマール・アブドゥン=ナーセルが古い植民地勢力と孤立することはソビエトの権力をその地域に広げることになるのを恐れると述べた。, 冷戦の緊張はキューバミサイル危機でその頂点に達した。これはソビエトがキューバに核ミサイルを配備したことでソビエト連邦とアメリカ合衆国の間の緊張が急激に高まった事件だった。この危機は1962年10月16日に始まり、13日間続いた。歴史家の多くは、2つの超大国間で核戦争が始まる寸前まで迫ったときだと見ている。, 第二次世界大戦が終わった直後の数年間は白人中流階級にとって概して安定と繁栄の時代だった。アメリカ合衆国はその戦争に向けられた力を急速に消費文化の方向に向けさせた。しかし、消費、郊外および経済の成長は、その繁栄が誰にでも広がっているのではないという事実に影を投げていた。多くのアメリカ人は、アイゼンハワー政権の間も特に老人や非白人の少数民族・人種の間では貧窮の中に暮らし続けていた。, 戦後の繁栄の結果として、1950年代の中流階級文化の中心で消費財に対する需要が増し、消費財の多様化と使い勝手の良さが求められ、それに対する広告も増加した。1950年代と1960年代の豊かなアメリカ人は、自動車、皿洗い機、生ごみ処理機、テレビさらにステレオのような生活を豊かにするものを求めた。この時代の繁栄は投資ではなく、消費が推進力だった。, 1960年までに自動車による移動距離が増すことで郊外人口は国内の3分の1までに膨れ上がり、デトロイトの自動車製造会社がさらに多くの自動車を生産するに連れて、国外の石油資源に対する依存度も上がっていった。郊外の成長要因は戦後の繁栄の結果としてだけではなく、一戸建て家屋市場の革新も貢献していた。ウィリアム・レビットはロングアイランドで大規模な住宅開発「レビットタウン」を建設するために大量生産方式を使い、国内のトレンドを作った。一方、郊外人口は戦後のベビーブームによっても膨れ上がっていった。郊外であれば大家族向けに大きな家が手に入り、都会よりも安全でありプライバシーが保たれ、消費財を置くスペースも確保できた。, 郊外の大半に住めるのはほとんど白人に限られていた。少数のアフリカ系アメリカ人はそこに住むこともできたが、そこに家を持てるような資力のある豊かなアフリカ系アメリカ人にしても公式にしろ非公式にしろ障害に直面した。敢えて郊外に住むことにした数少ないアフリカ系アメリカ人は概して控えめなあるいは明らかな方法で付き合いから遠ざけられていた。地域社会の感覚を売りにしていた郊外住人はその快適性や均質性について後に批判に曝されることになった。実際に郊外には多く同じような年代と経歴を持った住人が住んでいた。, レコンストラクション時代の終わり頃から多くの州ではジム・クロウ法を採用し、アフリカ系アメリカ人の人種差別を強制し、2流の階級に留めていた。1896年における「プレッシー対ファーガソン事件」に対する合衆国最高裁判所判決は人種差別を合憲と認めていた。, 1950年代を通じても南部における選挙権差別は広がったままだった。アフリカ系アメリカ人の小作人達は投票しようとしても白人農民に追い払われることが多かった。有権者登録委員会は資格があるアフリカ系アメリカ人の数を制限し、申請に来る者には白人より識字力の高い正確さを要求し、白人の申請者は自分の車の中や家でも登録が可能にしたが、黒人の申請者は後回しにし、裁判所の中でも黒人には別の登録場所を用意し、登録書の記入についても白人申請者のみに援助の手を差し伸べ、黒人の登録状況については何も告知しようとしなかった。, 差別に抵抗した南部の黒人、特に小作人は選挙人登録から締め出された。田園部の黒人は常に雇用主から解雇するぞという脅しの中で生活していた。白人の中で「市民評議会」を自称する者達は抵抗する者に経済制裁を行う政策を採り、あるいはクー・クラックス・クランのような白人自警団組織は南部中で歯止めの掛からない統治を実行する場合が多く、アフリカ系アメリカ人の私刑は日常的なことであり、滅多に告発されることは無かった。1882年から1950年代初期までに国内で4,500人近いアフリカ系アメリカ人が私刑に遭った。, 公民権運動の初期段階では、訴訟とロビー活動が人種差別撤廃活動の中心だった。カンザス州トピカでの「ブラウン対教育委員会事件」(1954年)、「パウェル対アラバマ州事件」(1932年)、「スミス対オールライト事件)(1944年)、「シェリー対クレーマー事件」(1948年)、「スウィート対ペインター事件」(1950年)および「マクローリン対オクラホマ州理事事件」(1950年)における合衆国最高裁判所判決によって戦術のシフトを促し、1955年から1965年に掛けては「直接行動」が戦略になった。すなわちバスのボイコット、シットイン、フリーダムライドおよび社会改革運動だった。, 「ブラウン対トピカ教育委員会事件」判決は黒人と白人の公共教育施設を分離することを明白に違法とした画期的な最高裁判所判決であり、公共教育の「分離すれども平等」の原則は白人アメリカ人が利用できるのと同じ基準の施設でアフリカ系アメリカ人を教育できるとは思えないという考え方に立っていた。アメリカ合衆国下院議員の82人と上院議員の19人が最高裁判決を非難する「南部マニフェスト」に署名した。, 1951年、アメリカ合衆国カンザス地区裁判所においてトピカ市教育委員会に対する訴訟が行われた。原告はトピカの3年生リンダ・ブラウンであり、分離された学校まで1マイル (1.6 km) を歩くことを強制されていたが、白人の学校は彼女の家からほんの7ブロックの距離にあった。ブラウンの訴訟は全米黒人地位向上協会が後ろ盾となり、その主任顧問であるサーグッド・マーシャル(後の1967年にアメリカ合衆国最高裁判所判事に指名された)が弁論に立った。地区裁判所は、1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」における最高裁判所判決を引用し、教育委員会有利の判決を下した。「プレッシー対ファーガソン事件」判決では白人と黒人について列車の中で「差別すれども平等」な設備を求める州法を許容していた。, 1957年、アーカンソー州知事オーバル・フォーブスはリトルロック中央高校での人種差別撤廃を防ぐために州兵を使い、ミシシッピ州知事のロス・バーネットやアラバマ州知事のジョージ・ウォレスはそれぞれの州立大学で玄関を物理的に閉鎖させた。ミシシッピ州下院議員のE・H・ハーストは選挙人登録講習に現れた黒人農夫を追って殺した。アラバマ州バーミングハムの公共安全コミッショナー、ユージン・T・"ブル"・コナーはバスにフリーダムライドを試みる者への暴力を提唱し、示威運動者に消防ホースと警察犬を向けるよう命令した。アラバマ州ダラス郡の保安官ジム・クラークは血の日曜日事件の行進参加者にその保安官代理達を立ち向かわせ、自らは別の抗議参加者を脅した。南部中の警察官がでっち上げの容疑で公民権運動家を逮捕した。幾つかの州の全て白人の判事達はアフリカ系アメリカ人を殺害したとされる者達を無罪放免した。, 公民権運動は白人の支持者や同調者もいたが、アフリカ系アメリカ人によって考案され、導かれ、組織化され、参加された。彼らは自らとその家族を自由への闘争の前線に置いた。その英雄的行動は新聞そして後にはテレビを通じてアメリカ中に報道され、平和的な行進やデモが警官に暴力を使って攻撃される様子が流れた。警官は警棒、鞭、消防ホース、警察犬を用い、抗議者を脅すために大量の逮捕が行われた。この運動の第2の側面は1人ないし2人の男に導かれるような、一枚岩のものではなかったことだった。むしろ分散した草の根運動であり、多くの異なる戦術を使って多くの場所で人種差別を攻撃したことだった。, 公民権運動の中でマルコムXのような特定集団や個人はブラックパワー、黒人の分離主義あるいは武装抵抗ですら唱導した者がいたが、運動参加者の大半は政治的利点を得るために暴力を控えることを虐げられた少数派の慎重な決断であるとした非暴力の原則に徹したままだった。公民権運動家は非暴力戦略を使って、当時普及しつつあった全国ネットワークの報道、特にテレビを味方に付け、国民の注意を惹きつけ、合衆国議会とホワイトハウスの関心を呼んだ。, この運動の中で黒人教会の指導的役割はその組織構造と機能の自然な拡張に繋がった。彼らは社会で否定されている役割を行使する機会を教会員に提案した。黒人教会はその歴史を通じて礼拝の為の場所として機能し、さらには地域社会の「掲示板」、信用組合、論争を裁く「人民裁判所」、支援集団、および政治活動の中心としても機能していた。これらの機能が牧師の重要性を高めた。公民権運動の中で最も著名な牧師がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだった。キングは雑誌「タイム」で1963年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。黒人の自由のために疲れを知らぬ行動と強い指導力で世界的な評価を得、1964年のノーベル平和賞まで勝ち取った。, 南部でも北部でも学生や生徒が公民権運動のあらゆる段階で重要な役割を担った。教会と学生に指導された運動はその組織と持ち堪えさせる構造を発展させた。1957年に設立された南部クリスチャン指導者会議が大半は北部からの資金集めを行い、地方での抗議と黒人指導者の養成に宛てた。同じく1957年に設立された学生非暴力調整委員会は「ジェイル・ノー・ベイル(刑務所、保釈金無し)」戦略を発展させた。学生非暴力調整委員会の役割はシットイン運動を発展させ互いを結びつけること、フリーダムライド、有権者登録運動などの抗議運動の組織化を援けることだった。これら新しい組織は既存の組織、例えば1909年設立の全米黒人地位向上協会、1942年設立の人種平等の会議および全国都市同盟などと共同行動を採ることが多かった。全米黒人地位向上協会とその指導者ロイ・ウィルキンスは投獄されたデモ参加者の法律上の相談に乗り、保釈金を集めることに貢献し、その前の半世紀間続けていたような裁判所での人種差別と人種分離に対する判断を仰ぐ動きを続けた。人種平等の会議は1961年のフリーダムライドを始めさせて、それに学生非暴力調整委員会のメンバーを巻き込んだ。その指導者ジェイムズ・L・ファーマーは後に学生非暴力調整委員会の事務総長になった。, ジョン・F・ケネディ大統領の政権は学校や公共施設における人種分離撤廃の強制を支持した。司法長官のロバート・ケネディは黒人系アメリカ人の選挙権を確保するために4つの州で50以上の訴訟を起こした。しかしFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは公民権運動の中に共産主義者の影響がある可能性を心配し、個人的にはキングに敵対していたので、キングや他の公民権運動指導者の信用を落とすようFBIに仕向けた。フーヴァーのCOINTELPRO計画は情報宣伝、潜入者、暗殺および逮捕という手段で反体制派政治組織を妨害することを目しており、公民権運動はその主要な標的にされた。, ケネディの大統領在任期間はほぼ1,000日に過ぎなかった。この短い在任期間に、宇宙開発競争におけるアメリカ合衆国の役割を加速させたこと、ベトナム戦争におけるアメリカの役割を拡大させ始めたこと、キューバのミサイル危機の解決、ソビエト連邦との冷戦を悪化させたピッグス湾侵略、フリーダムライドへの攻撃、ミシシッピ大学の人種統合でジェームズ・メレディスに向けられた集団暴力、バーミングハム運動の時のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの投獄、および弟のロバート・ケネディを司法長官として入閣させたことなど、多彩な事件が続いた。, ケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された。その犯人と考えられたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、正式に告発され裁判に掛けられる前にジャック・ルビーによって射殺された。ケネディとオズワルドが殺された日から4日後、大統領職を継承したリンドン・B・ジョンソンがこの暗殺事件を調査するためにウォーレン委員会を創設した。, ケネディの暗殺後、ジョンソンはその任期の残り期間をケネディ路線の継承と考えるやり方で務めた。ロバート・ケネディを含めケネディの閣僚達には残り期間を勤め上げるよう説得した(ただし、ジョンソンとロバート・ケネディは辛辣な仲だったとされている)。ジョンソンは1964年の公民権法を成立させるためにかなりの政治手腕を発揮した。この行動によって1964年の大統領選挙では容易に再選された。, 国際連合が中華人民共和国を認めようとしなかったので、ソビエト連邦はこのとき国際連合出席をボイコットした。このためにトルーマンの行動に拒否権を発動できなかった, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=アメリカ合衆国の歴史_(1945-1964)&oldid=78057073.

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