(Nobel laureate Aung San Suu Kyi makes awkward visit to China), アフガニスタンをめぐる覇権の多極化を示す事象としてもう一つ興味深いのは、タリバンとイランの接近だ。イラクは昨年来、5回にわたってタリバンの代表をテヘランに招待し、アフガニスタンでも活動を始めたISISと戦うタリバンに、イラクやシリアでISISと戦うイランが、武器と資金を出すことを決めている。イランとタリバンは、米国の影響力をアフガニスタンから排除することでも共闘すると決めた。 (タリバンの復活), 春になり、タリバンはカブールを奪還しようと軍事行動を再開した。これを受け、中国の依頼を受けたパキスタン政府が、自国を拠点とするタリバンに「戦闘をやめてアフガン政府との和解交渉に出ろ。そうでなければパキスタンを拠点として使わせない」と圧力をかけた。アフガン・パキスタン国境沿いは昔から両方の政府の統治が及びにくい無法地帯(部族地域)で、パキスタン軍はそこにタリバンが拠点を作ることを許し、タリバンはそこからアフガン側に越境攻撃するのが常だった。5月にはパキスタンのシャリフ首相がカブールを訪問し「戦闘をやめずアフガニスタンに迷惑をかけるなら、もうタリバンはパキスタンの友人ではない」と非難した。パキスタンの指導者がこんな非難をするのは初めてだった。 (US Claims Iran Has Started Backing Taliban), 今やアフガニスタンの周囲は、中国、パキスタン、中央アジア諸国、ロシア、イランと、すべて反米・非米的な陣営の国々になっている。これらを主導してアフガン安定策を始めているのが中国で、その動きを米国も承認している。何年か時間がかかるかもしれないが、アフガニスタンが中国主導で安定していく可能性が強い。アフガンが安定し、米欧によるイラン敵視も終わると、ユーラシアの中央部は完全に米国覇権から離脱してしまう。インドは、まだ中国やパキスタンとの関係が好転していないが、中国主導のアフガン安定化の進行を見て焦っている。インド一国では対抗できないので、いずれインドは中国とパキスタンに対する敵視を弱めるだろう。インドが中国パキスタンと関係改善したら、中国はインドを上海協力機構に入れることにしている。 (China's Afghanistan Moment) アフガニスタンの首都カブール近郊のアメリカ軍部隊に属するバグラム空軍基地付近で、爆弾搭載車両により攻撃が実行され、1人が死亡、80人が負傷した。 (よみがえるパシュトニスタンの亡霊), 自分たちの強さを確信しているタリバンは「ほかの拠点を探し、パキスタンから出ていってやる」と豪語し、もう一つの古巣であるアフガニスタン南部や、新たな境地としての北部で、政府軍や地元武装勢力にさかんに戦闘を仕掛けた。ウルムチで和平会議が行われる直前の6月22日には、タリバンがカブールの国会議事堂に突入して銃を乱射した。「おれたちは、その気になれば簡単にカブールを陥落して政権を奪取できるぞ」という強さを誇示する軍事行動だった。 (Afghan chief executive backs Taliban peace effort 'in coming days') ソ連がアフガニスタンに侵攻した理由を見る前にアフガニスタンはどこに位置しているのかを確認しようと思います! アフガニスタンがどんな場所にあるかを把握しておくだけでもソ連がアフガニスタンに侵攻した理由をより把握しやすくなるでしょう。 さて当のアフガニスタンは中央アジアに位置しています。 日本人は普通でしたら気にも留めないですよね。 地図に赤線が引いているところが、アフガニスタン! ~スタンっていう国が周りに多い!っていうのが率直な感想。この「スタン」は「国、地域」 … (The Future of the Taliban) (Afghanistan's security on the brink of collapse), アフガン政府軍は、やる気と財政が不足している。それは、中国政府系の研究者も公言している。カブールで最も警戒が厳しいはずの国会議事堂にやすやすと突入できるのだから、タリバンがその気になれば、カブールを奪還するか、少なくともアフガン全土を内戦に陥らせることが可能だ。しかしそれをやると、アフガニスタンに駐留枠を残したまま撤退した米軍が、大挙して戻ってきて、再びタリバンを蹴散らすかもしれない。それよりも、中国の説得に乗って和解交渉に参加し、アフガン政府との連立政権を組み、軍事でなく政治的なやり方で政権を取った方が得策かもしれない。タリバンはそんな風に考えて、一方で戦闘を続行して軍事的な強さを誇示しつつ、他方で中国とパキスタンが仲裁する和平交渉に参加している。 アフガニスタンに米軍基地なんかができたらもう、ソ連の横っ腹にナイフが突き立てられたようなものです。 アフガニスタンに米軍基地ができればアメリカのミサイルや核兵器が当然持ち込まれま、その近さからソ連全土がミサイルの攻撃範囲になるわけです。 (Mes Aynak - Wikipedia) (米中のアジア覇権シーソーゲーム) (China meet-up : Afghan Taliban dispute Aziz's peace talks claim), 冷戦時代から内戦が続くアフガニスタンの東部地域の住民の多くは、隣国パキスタンで難民として暮らしてきた。90年代半ば、パキスタン軍の諜報機関がアフガン難民を訓練し、アフガニスタンに侵攻して祖国を統一させるために作ったのがタリバンだ。タリバンは96年にアフガン全土をほぼ制圧して政権を樹立した。タリバンは、アフガン人の過半数を占めるパシュトン族を代表する組織なので、タリバン政権は民族自決や民主主義の見地からも正当性を持ち得る政権だった。だがタリバンは、オサマ・ビンラディンをかくまった罪で01年の911事件直後に米国から侵攻を受けて政権を放棄し、それ以来反政府勢力としてゲリラ活動を続けている。 (Taliban Denies Reports of Secret Peace Talks in China) (日本がよみがえらせたアフガンの村) (Afghanistan still without government), タリバンは、米軍より弱いが、アフガン各地の他の武装勢力より強い。米軍統治下でさえ、首都カブールを一歩出ると、夜間はタリバンの支配下になる地域が多かった。だからタリバンは、米軍撤退後、米国が据えたアフガン政府を武力で倒して政権を奪還するつもりだった。それに待ったをかけたのが中国だった。アフガニスタンは山岳地帯が多いので冬は雪に閉ざされて戦闘できず、毎年春から秋までが戦闘の季節だ。中国とパキスタンは、冬の間にタリバンとアフガン政府を和解させたかったが、まず軍事的な強さを見せつけたいタリバンは、交渉に出たものの進捗を拒んだ。 (アフガニスタン紀行) (Analysis: What's Behind Democracy Icon Aung San Suu Kyi's China Visit?) (仕組まれた9・11:なぜアメリカは戦争を企図するか), これは結果的に正しかった。米軍主導のアフガン占領は泥沼化し、占領に参加して派兵した欧州諸国などは、無意味な戦闘で死者を増やし、国内の反戦運動が起こる中、撤退すると担当地域がタリバンに陥落してしまうので撤退すらできず、ひどい目にあった。中国がアフガン派兵していたら、新疆ウイグル自治区のイスラム主義運動が今よりもっとさかんになり、中国の内政混乱の原因となっただろう。04年に11人の中国人技術者がアフガニスタンでタリバンに殺された後、中国はいっそう低姿勢になった。 (Transit Center at Manas From Wikipedia), マナス飛行場は、中国国境から250キロしか離れていない。米国が本気で「中国包囲網」策を持っているなら、マナス基地の租借をやめて撤退するのはおかしい。米国は、南シナ海など太平洋側ではさかんに「中国包囲網」の強化を演じるが、反対側の中央アジアでは包囲網を維持する気がない。 1995年9月、アフガニスタンの内戦で国土のほとんどを支配していたタリバン勢力が、首都カブールを制圧した。ブルハヌディン・ラバニ大統領は逃亡し、北部だけを支配していた「北部同盟」に参加した。1998年8月、ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームのアメリカ大使館がテロ爆弾攻撃を受けて、安全保障理事会は、アフガニスタンに依然としてテロリストがいることに対する懸念を繰り返した。12月、理事会は、国際テロリストとその組織に隠れ場所と訓練を提供することをやめるようタリバンに要求した。タリバンはアフガニスタンの正当な政府であると認められることはなかった。タリバンは理事会の要請に応えなかった。, 1999年10月、理事会は、国連憲章の強制措置規定のもとに、幅広い制裁を実施することに決めた。また、オサマ・ビン・ラディンは大使館爆撃の容疑者としてアメリカが起訴していることに留意し、彼を適切な機関へ引き渡すようタリバンに要求した。, 2001年9月11日、ビン・ラディンのアルカイダ組織のメンバーがアメリカで民間航空機4機をハイジャックし、2機がニューヨーク市の世界貿易センタービルに衝突し、1機は米首都の国防総省に突っ込み、もう1機は、乗客の阻止によってペンシルバニアの平地に墜落した。この攻撃によっておよそ3,000人の人々が犠牲となった。それに続いて、アメリカ政府はタリバンに最終通告を行い、ビン・ラディンを引き渡してアフガニスタンのテロリスト作戦を終わらせるか、大規模な軍事攻撃を受けるか、のいずれかを選択するよう迫った。タリバンは拒否した。10月、米英軍がアフガニスタンのタリバンの軍事目標やビン・ラディンの訓練キャンプにミサイル攻撃を行った。爆撃は2週間にわたって続けられ、その後、米国地上軍の展開となった。安全保障理事会は、タリバン政権を代えようとするアフガニスタン国民の努力を支持した。国連はまた、広く国民を代表する、包摂的な政府の樹立を目指して、アフガニスタン当事者間の対話を進めた。国連がボンで開催したアフガニスタン政治指導者の会合は、12月初めに終わった。会議では恒久的な政府機構が再樹立されるまでの暫定的取り決めについて合意が見られた。第一のステップとして、アフガニスタン暫定政権(Afghan Interim Authority)が設立された。安全保障理事会は、国際治安支援部隊(International Security Assistance Force: ISAF)の設立を承認した。暫定政権を助けて、カブールとその周辺地域の治安維持にあたる。その月の後半、国際的に認められたラバニ大統領の政権は、ハミド・カルザイ議長が率いる新たなアフガニスタン暫定政権へ権限を委譲し、最初のISAF部隊が展開された。, 2002年1月、国際アフガニスタン復興支援会議が開かれ、45億ドルを越す誓約が行われた。安全保障理事会は、タリバン政権の崩壊の結果、アフガニスタン国内に見られる好ましい変化を歓迎した。新しい現実を反映させて制裁を調整し、アルカイダとその支持者を制裁の対象にした。3月、理事会は、事務総長の勧告に従って、国連アフガニスタン支援ミッション(United Nations Assistance Mission in Afghanistan: UNAMA)(https://unama.unmissions.org/)を設立した。UNAMAは、人権や法の支配、ジェンダーの問題など、ボン協定が国連に付託する任務を果たす。団長は事務総長特別代表で、国民和解を促進し、暫定政権とその継承者と調整をはかりながらアフガニスタンの国連人道活動を管理する。, 2002年6月、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議の意味で、伝統的なフォーラム。部族の長老が集まって問題の解決を図る)が、9日間の予定で開催された。大会議は、ザヒル・シャー元アフガニスタン国王によって開会された。元国王は国家の指導者としてハミド・カルザイを指名した。ついでカルザイ氏がアフガニスタンの国家元首に選ばれ、その後2年間にわたって暫定政府を率いることになった。2004年1月、憲法制定ロヤ・ジルガは、アアフガニスタン憲法として採択されたテキストに合意した。その年の10月、800万人以上のアフガニスタン人が投票に行き、アフガニスタン史上初めて選挙による大統領としてハミド・カルザイを選出した。2005年9月、選挙運動中に一連の死者を招くような攻撃があったものの、アフガニスタン国民は国民議会と暫定評議会の選挙を行った。, 2006年1月、ハイレベル・グループ会合がロンドンで開かれ、「アフガニスタン・コンパクト」を発足させた。これは5カ年計画で、民主主義制度を確立するとともに治安の強化を図り、不正な薬物取引を取り締まり、経済を刺激し、法を執行し、アフガニスタン国民へ基礎サービスを提供し、その人権を擁護する。翌月、安全保障理事会は、アフガニスタン政府と国際社会とのパートナーシップのための枠組みを提供するものとして「コンパクト」を全会一致で支持した。2008年6月、コンパクト実施の資金として200億ドルの誓約があった。それには2009年と2010年の選挙の準備に対する支援も含まれた。選挙ではカルザイ大統領が再選された。, 政治的前進が見られたものの、2008年、2009年を通して暴力がエスカレートした。2009年10月にはタリバンがカブールの国連ゲストハウスを攻撃し、5人の外国人国連職員と3人のアフガニスタン人が殺害された。2010年、会議は、治安問題の責任を2011年までにアフガニスタン当局へ移行させる必要を強調した。アフガニスタンの州の管理を2014年までにISAFから国家治安部隊へ移行させることについて話し合った。会議ではまた、良い統治、司法システムの公平、人権、それに薬物の取引がもたらす長年の問題も取り上げられた。, 2011年9月20日、ラバニ元大統領が自爆テロによって殺害された。ラバニ氏の死亡は、以前の北部同盟の参加者もしくはそれに近い要人に対する一連の暗殺行為の頂点に立つもので、政治的な内部工作を強化する一方で、様々な勢力と民族集団との間の信頼を弱めることになった。2012年10月、ブリュッセルで開かれた北大西洋条約機構(NATO)国防会議で、ISAFは2014年以後の訓練を計画するようにとの指示を受けた。11月15日、アフガニスタンとアメリカは、戦略的パートナーシップ協定の線に沿って二国間の安全保障協定に関する交渉を発足させた。2013年3月、安全保障理事会は、治安、統治、司法、経済社会開発、それに国家薬物統制戦略の実施も含むアフガニスタンの「国家優先プログラム」を支援するよう国連に要請した。, 2014年4月5日の大統領選挙と県会議員選挙には、タリバンやその他の過激主義者、テログループの脅威や脅迫にもかかわらず記録的な数のアフガニスタン人が参加した。理事会は、新しいアフガニスタン大統領としてアシュラフ・ガーニの9月29日付け就任を歓迎した。それはまた、アフガニスタン史上初めての権限の民主的移行を示すものであった。, 2014年12月、理事会は、2014年後の「確固たる支援ミッション(Resolute Support Mission)」を創設するアフガニスタンと北大西洋条約機構(NATO)との合意を歓迎した。これは12月28日に任務を完了する国際治安支援部隊(ISAF)に続く任務である。2015年6月、全閣僚の任命によって政治的進歩が達成されたものの、外国のテロリストがアフガニスタンへ浸透し続けていることから治安情勢が課題として残った。2015年、UNODC(国連薬物犯罪事務所)事務局長は、アフガニスタンの違法薬物が不安定、反政府活動、腐敗、組織犯罪を支えているとともに、国家機関や平和と良い統治を進めるアフガニスタンの全体的な能力を弱めている、と強調した。麻薬対策は続けられた。, 2016年9月14日、理事会は、アフガニスタンを援助するために一般市民の支援や開発援助を続けるよう国際社会に要請した。, アフガニスタンの治安情勢は不安定であった。UNAMAの長は、2013年に、アフガニスタンの治安部隊の能力は強化されつつあるが、必要な能力を取得するには、少なくとも今後5年間は国際支援が必要であると理事会に伝えた。2014年、2015年、2016年とテロ攻撃が続いた。2016年4月19日にはカブールでタリバンによるテロ攻撃があり、28人が死亡、300人以上の人々が負傷した。2017年1月、理事会はカブール、ヘルマンド、カンダハルでの攻撃を非難した。これらの攻撃によって161人の人々が殺され、負傷した。3月、理事会は決議2344(2017)を採択してUNAMA の任務を2018年3月まで延長した。, 国連は、史上最悪のグローバルな健康危機を含め、大きな試練の時に創設75周年を迎えます。この危機は世界をより緊密に結びつけるでしょうか?あるいは分断と不信の増大につながるのでしょうか? あなたの意見によって変化をもたらすことができます。, 国連の取り組み:平和維持活動における 性的搾取・虐待を防ぐために(ファクトシート 2015年9月), ACTION FOR DISARMAMENT -軍縮のためのアクション: あなたにもできる10のこと.

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